1 ドトール

2/2

9人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
遡ることは15分ほど前。 待ち合わせの時間を30分以上過ぎ、 女は漸くドトールの入口に姿を現した ドトールに入るや否や、 女はカウンターまで勢いよく進む。 そして、ドトール内を素早く見回し、 二人席に陣取る俺の姿を見出すと、 にこやかな笑みを浮かべながら手招きをする。 またかと嘆息を漏らしつつ、 俺はカウンターに向かう。 今日はタピオカミルクティーとジャーマンドッグ、 そしてベイクドチーズケーキを奢らされる羽目になる。 注文した品、そして水の入った二つのコップをトレイに載せ、誇らしげな笑みを浮かべつつ、女は俺の待つ席へと近づいてくる。 向かい側の席に座り、無言で手を合わせてから ジャーマンドッグに齧り付く。 ジャーマンドッグを手早く平らげた後、 コップの水を一気に飲み干す。 そして、口直しを言わんばかりに タピオカミルクティーを二口ほど飲んでから、 フォークを手に取って ベイクドチーズケーキを4つに分割する。 白い皿にフォークがぶつかる硬い音が仄かに響く。 水と交互に、飲み下すかのように 二欠片のベイクドチーズケーキを平らげてから、 女はようやく落ち着いた素振りを見せる。 ゆっくりとタピオカミルクティーを飲み、 ストローで所在なさげにプラスティックの容器の底に 沈むタピオカをつついている。 その悠然とした佇まいは、 恰も1時間前からこの席に座っているかのようだ。 唇の左端をやや持ち上げ、 何故か蔑みの色を湛えた目で俺を見遣った後、 女は周囲をゆっくりと見渡す。 そして、タピオカミルクティーの容器を 机の上に置き、腕を組んだ後に深いため息を付く。 俺はため息の訳を尋ねる。 女は答える。 「ドトールってさ、地獄だよね。」 随分な言い草だ。 自分で待ち合わせ場所をドトールと指定し、 自分で決めた待ち合わせ時間に30分以上も遅刻し、 そして、恰も当然かのように奢らせる。 それなのに「地獄」か。 まぁ、いつもの言い草なんだが。 しかしながら、その言い分を聞いてみたくもある。 心の中で複雑な溜息を付き、 俺は女に地獄の理由を問い掛ける。 女は物憂げに口を開く。 「世の中の全ての場所をさ、  天国と地獄とに分けるとするでしょ。  そこで得られる快と不快、  その差し引きがプラスだったら天国側、  マイナス側だったら地獄側。  そうすると、ドトールは地獄になるの。」 いやいや、これだけ勝手に飲み食いしておきながら「地獄」はないだろう。 奢ってもらっておきながら、それは違うんじゃないか と異議を申し立ててみる。 女はため息を付き、 右手の親指と中指で両のこめかみを揉み、 そして、ため息とともに語り始める。 「誤解を与えたのなら謝るわ。  ご馳走して下さったことには感謝しているのよ。」 「でもね、『地獄』ってね、  そういう話じゃないのよ。」 「見て、この陽の光。  眩しいし、  光の色合いは安っぽい刃物みたいに冷たいし、  そして差し込むこの角度が大嫌い。  太陽の光は上から降り注がないと駄目なの。」 「それに客層も嫌。  いかにもドトールって感じ。  みんな鞄が四角いのよ。それが嫌。」 「この水飲みコップも嫌なのよ。  食洗機で洗い倒してるから細かな傷でいっぱいよ。  透明じゃなくてもう白色よ。  見ているだけで惨めな気持ちになるわ。」 「ドトールで過ごす時間は好きよ。  あと4時間は居られるわ。パンも美味しいわ。」 「でもね、ドトールに居れば居るほど、  寒々しい太陽の光とか、そういった嫌なものが、  少しづつ少しづつ、  私の中の何かをヤスリみたいに削り取っていく、  そんな感じがする。  だからドトールは嫌。  得られるものもあるけど、失うもののほうが沢山。  だから、ドトールは地獄なのよ。」 いや、それじゃドトールに居なければ良いのでは? 女はため息を付く。頬杖をついて物憂げに窓の外を見遣る。そしてまた語る。 「分かってないわね。  生そのものが人にとって地獄なのよ。」 え、何かあったの? 「下らないこと言わないで。  あなたって今この瞬間に産まれた人?  人は記憶を持っている限り、  それに含まれる毒からは逃れられないのよ。  あの時こうすれば良かった、  この時に発した言葉は他人からどう思われたか、  自分のこんなところが嫌い、  あんなとこが嫌だ。」 「人間ってね、幸せな記憶より、  嫌な記憶のほうをよく覚えてるのよ。  それらは記憶の狭間に常に潜んでいて、  記憶のページをめくる時、  不意打ちのようにその指先を刺してくるのよ。  むしろ、皮膚の下に、自分の内側にその先を  向けている小さな針が無数に埋まっていて、  何か思うたび、  何か行動するたびに自分に痛みを与える、  そんな感じよ。  記憶は人それぞれ、  痛みもその毒も人それぞれよ。     人はみな、それぞれにカスタマイズされた、  オートクチュールな地獄の中で生きているのよ。  だから、全ては地獄。」 そう一気に語ってから、 女は残っていたチーズケーキを平らげる。 そして、スマホをバッグから取り出す。 どことなく寂しげな笑みを浮かべながら SNSに興じ始める。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加