6 スターバックス

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スターバックスを出たはいいものの、飲み物を持ったままだと他のお店には入れないよねということで、御茶ノ水駅から少し離れたビル近くの、少し小高い、植え込みに囲まれた場所に設けられたベンチに二人並んで腰を掛けた。 そこは、駅の直ぐ近くであるのに人気(ひとけ)が無く、そして人の目に晒されることも無い、穴場のような場所だった。 「ごめんね。人がたくさん居る騒がしい場所だと、  なんだか話す気になれなくて。」 と、女は詫びの言葉を口にする。 駅からは然程離れていないそのベンチに腰掛けると、 様々な音が俺たちを包み込んでいくように思えた。 街行く人並みが醸すざわめき、 車道を駆ける車のエンジン音、 駅から響いてくる独特な抑揚のアナウンス、 そして、駅を過ぎ行く電車が奏でる地響きのような通過音。 様々な音に包まれつつも、でもそれらの音は、 どこか遠い世界から響いてくるかのように思われた。 そんな他人事(ひとごと)のようなざわめきの中、女はぽつりぽつりと言葉を(こぼ)し始める。 「丸亀製麺で色んな話を聞いて貰っていたら、  何だか申し訳無くなってきちゃって。」 そんな女の申し訳なさげな言葉を受け、 俺は彼女に語り掛ける。 「そんなことないよ。  玉ねぎの話だって面白かったよ。  よくあんな感じに自分の内面と、  玉ねぎの味わいとを結びつけて話せるもんだなと  ちょっと感心したよ。」 女は黙り込んだ。 気詰まりな沈黙が俺と女との間に流れる。 女が再び口を開く。 その声は相変わらず心細げだったが、 俺と女との間に蓋のように横たわる 沈黙を押しのけるような決意を 何処かしら(はら)んでいるように感じられた。 「貴方にはいつも私の話を聞いてもらって  ばっかりだし、普段からホントに甘えっぱなし  だと思う。私って毎回毎回、  ホントにワガママばっかり言っているし。」 正直、意外だった。 俺に甘えつつも、そして我儘に振る舞いつつも、 一定の節度は弁えているようなその様子から、 女にその自覚があることは何となく分かってはいた。 けれでも、彼女の口からそれを言葉として聞いたことには正直驚いた。 一定の節度を守りつつ女は俺に甘え、 そして、俺はそれを許容する。 それは、俺たちの間での、 言うなれば『暗黙の了解』であったようにも思う。 いつの間にか、密やかに交わされた『暗黙の了解』。 今になって、女がそれを敢えて言葉にしたことは意外であったし、そして、これから語られるであろう女の言葉の、その深刻さを予感させるものでもあった。 女は言葉を続ける。 「いつも貴方には申し訳なく思っているの。  私がこんなにワガママになっちゃうのって、  貴方の前でだけなの。  貴方と一緒にいて、そして貴方と話していると、  何だか甘えたくなっちゃうし、  ついついワガママも言いたくなっちゃうの。」 「友達と一緒にいる時だって、  自分自身を出すことには注意しているの。  私だけ甘えるような態度を示したら  嫌われちゃうし、私だけ喋っていたら、  空気読まない奴だって思われちゃう。  家族と一緒にいるときよりは随分とマシだし、  まだ全然自分を出せるけど、  でも、自分自身の言動をきっちり  見張っているような、  もう一人の冷たい自分が私の中にいるの。」 俺は頷き、女の顔を見遣る。 そして、無言で言葉を促す。 女の言葉は続く。その響きはどこか切なかった。 「でも、貴方といると、  そんなもう一人の冷たい自分が  見張りの仕事をやめちゃうの。  だから、私は色んなことを貴方に話しちゃう。  言葉がいつの間にか心から自然に流れ出てくる、  そんな感じなの。  いつも貴方に聞いてもらってる地獄の話だなんて、  他の誰にもしないんだよ。  家族は勿論、友達にだって。  こんな話をしようものなら、  もう絶対にヤバい子って思われちゃうに  決まってるから。」 驚き、そして切なさとが、俺の心を犇々(ひしひし)と満たしていく。 女は続ける。 「でも…でも、私ばかり我儘言っていると、  貴方に申し訳無いって気持ちも  湧き上がってきちゃう。  私の話をずっと聞いて貰っていると、  ごめんなさいって気持ちが  私の心の中でグングンと膨らんで来ちゃう。」 俯き加減のまま、女は言葉を続ける。 その心を絞り出すかのように。 その言葉は、彼女の抱える深い懊悩を孕んでいるかのようにも思えてしまった 「そして、こうも思っちゃう。こんな私って、  いつかきっと貴方に嫌われちゃうって。」 「貴方と別れた後、いつもこう思っちゃう。  今日もワガママして、そして、  好き勝手に色んな話をしちゃったけど、  貴方に嫌われたりしなかったかな?って。  もし、貴方に嫌な思いをさせちゃってたら  どうしよう、って。」 女の言葉は止まらなかった。 「今、貴方にこんな話をしている自分自身が嫌なの。  こんな話をして、  そして、私の悩みを貴方に否定してもらうことを  期待しちゃってるの。  そんなことないって言ってもらうのを  期待しちゃっているの。  私って、もう本当にどうしようもない人間なの。  バカだし、幼稚だし、我儘だし、甘ったれだし。  もう、こんな自分が大嫌いなの。」 「だから、さっきも丸亀製麺で  変な態度になっちゃった。本当にごめんなさい。」 俺は、どう言ったら良いのか分からなかった。 どんな言葉を発したら、女が抱えるこの苦悩の連鎖を断ち切ることが出来るのか分からなかった。 言葉で否定すること自体は出来るだろう。 嫌だなんて思っていないよ、とか、 悩みがあったら聞かせてよ、とか。 けれども、そんな言葉を発してみたところで、 それらの言葉は激流のような女の苦悩の中に あっさりと飲み込まれ、 そして彼女の心に届くこと、 彼女の心に響くことはないだろう、 そのように思えてしまった。 至極、簡単な言葉を除いて。
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