2 ベローチェ

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その女性は、どうやら俺が手に取った本を求めていたらしい。 俺としても、女性を前にして半裸の女性が表紙を飾っている本を持っているのも居たたまれないので、その本を書棚に戻し、代わりに『瓶詰めの地獄』の本を手に取る。 女性は、俺が書棚に戻したばかりの本を手に取る。 何とは無しに一緒に1階のレジコーナーへと向かい、隣り合ったレジで会計を済ませる。 そして、申し合わせた訳でもないのに、同じタイミングで書店から出る。 書店の前の横断歩道を渡ろうと信号待ちをしていたら、その女性は俺の左隣に立ち、そして、済まなそうな声で、何とか聞き取れる程度の小声で話し掛けてきた。 「あの・・・さっきは済みませんでした。」 いや、そんなことないですよ。ちょっと手に取ってみただけだったので、と、内心の動揺や胸の動悸を見透かされないようにと声のトーンを落として答える。 いきなり女性から話し掛けられると、意外と驚くもんだ。 歩行者信号が青へと変わった。 横断歩道を一緒に渡り始める。 この書店にはよく来られるんですか?などと話し掛けてみる。 「あ・・・はい。そうですね・・・。  週末は・・・時々・・・。」 などと、ドギマギした感じで女性は答える。 自分から話し掛けてきた割には、随分と慣れていない感だ。 横断歩道を渡り終え、左へと向きを変える。 女性も同じ方向へと歩みを進める。 途切れ途切れに挨拶程度の会話を交わしながら並んで歩く。 つい、件のTシャツについて聞きたくなってしまう。 面白いTシャツですね、どこで買ったんですか? と聞いてみる。 女性はモジモジとした、でもどこか嬉しそうな感じで答える。 「原宿ですよ。明治通りのラフォーレの向かい側にお店があるんです。」 原宿かよ! 上野のアメ横あたりの怪しげな店あたりだろうと思っていただけに、何か裏切られたような思いだった。 そんなところで買われたんですか。面白いTシャツですよね、初めて見ましたよと言葉を返す。 女性は更に嬉しそうな表情をするも、何故か顔を背けてしまった。 女性の足下に目が行く。 細身のジーンズに包まれたその足下に履いているのは、黒のアンクルストラップサンダルだった。 そして、サンダルの先から覗くその爪先は、薄緑のネイルで彩られていた。 意表を突かれる思いだった。 『変なTシャツを着た、見た目はともかく何か変な女』という第一印象から、 『オリジナリティのある、普通に綺麗な女性』へと、俺の中でのその女性に対する評価がランクアップしてしまった。 右手の路地の奥にベローチェが見える。 俺が時々入る喫茶店だ。 外はまだまだ暑いので、今買った本でも読みながら涼むとするか。 そして。 ついつい。 一緒に歩くその女性に誘いの声を掛けてしまった。 普段の俺ならば、 絶対にそんなことなどしないのだが。 良かったら… 一緒にそこのベローチェでも入りませんか? 本の趣味も合いそうだし、 少しお話でもしたいな、と。 女性は驚いたかのように、そっぽを向けていた顔をパッと俺の方に向ける。 その瞳は、先程の『あと10分で死ぬ魚』のものではなかった。 生気に溢れ、そしてどこか悪戯っぽさもまた漂わせていた。 あ・・・可愛い、と思ってしまった。 不覚だった。 世に言う不覚とは、まさにこのことなのだろう。 そして、一緒に入ったベローチェにて、 アイスカフェラテとミルクレープを奢ることとなる。 『変なTシャツを着た、見た目はともかく何か変な女』という俺の第一印象は、全くもって正しかったことを程なく思い知らされることとなる。 これが、「地獄」に導かれた、俺と舞島紗花(まいじまさな)との出会いだった。 折角買った『瓶詰めの地獄』は、 その次の土曜に舞島に巻き上げられる運命となる。 そして、毎週のように、『あと10分で死ぬ魚』な瞳で見つめられながら、有り難く「地獄」の話などを拝聴することとなる。 毎週のように、ドリンクやケーキ、あるいは麺類などを奢らされながら。 これは、俺と舞島との「地獄」を巡る物語だ。
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