春(九)

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春(九)

 塔子の家は車で一時間ほどの閑静な住宅街の中にある。大森家程の広さは無いが、庭付きの和風建築は裕福な家の象徴だ。  朱音は急いで支度を済ませた後、羽織を持って大森家の外に出た。そして、この屋敷には車があったという事を初めて知った。新太郎の風貌からして近代的なものには疎いという勝手な先入観を持っていたからかもしれない。数少ない電車に乗っていくのだとばかり思っていたが、屋敷の裏手の木々が生い茂る中にある車庫に案内された。新太郎曰く、人目につかないようにするために車は必須だそうだ。しかし、車をこの小さな村で乗り回していたら目立つだろう。朱音は新太郎が助手席に座ると、車は村の方ではなく、森の中に入っていった。 「屋敷の裏手から隣町に出られる道です。この家の者以外は知らないですし、使いません」 「こんなに狭い村なのに、旦那様の事をお見かけした事が無いのは、こういう理由があったのですね」 「そうですね…僕のような姿は疎まれますから」 「…」  朱音は「しまった」という気持ちが頭をよぎった。そして朱音が初めて新太郎に会った時の表情を思い出した。銀髪に白仮面はこの世のものではないように思い、幽玄に新太郎は妖なのかと問うほどだった。恐ろしい化け物を見るかのような目を、きっと他の者にもされたのだろう。それがどれだけ心の傷になる事か、想像がつかない。新太郎はそれ以上何もいう事無く、朱音の隣で車を運転を続けた。ごつごつとしているが白く細い指が、ハンドルをしっかりと握っている。細く整備されていない山道にも慣れているのか、表情一つ変える事無く器用に車を操作しているが、後ろに座っている野菊は左右に首を振りながら目を回していた。朱音はちらっと新太郎を見ると、右腕からはあの魚鱗がわずかに顔を覗かせている。  塔子の家に到着すると、家の前には響が立っていた。 「主様、予想通りです」  新太郎が車から降りるとすぐに声をかけてきた。 「そうか、わかった」  新太郎の顔は明らかに険しくなった。朱音にはその理由が何故だかすぐに分かった。新太郎ほどの力は無いが、塔子の家の中からの禍々しい空気を感じ取ったからだ。心を許せば呑まれそうになるくらいの嫌なものを感じたが、新太郎について行くと言ったからにはここで降りないわけにはいかない。野菊もまた、何かを感じとりながらも車酔いの方が酷いようでふらふらしながら降りた。  二人が車の扉を閉めた瞬間、目の前に一筋の閃光の走った。朱音は思わず腕で顔を覆い、目を細める。何が起こったのか見ようと努力をしたが、その後すぐに羽織が飛ばされそうになるほどの突風が吹き、朱音の前に影が覆い被さる。また野菊の時のように渦に巻き込まれたのかと思ったが、身体が言うことを聞く。朱音は恐る恐る目を開けると、そこには響の後ろ姿があった。朱音より大きな身体はまるで壁のように聳え立ち、右手は日本刀を持ちながら、刃先からぽた、ぽた、と汁が落ちていた。朱音は刃先から下を見ると、響の足元には見たこともない妖の姿があった。妖の体は小刻みに震え、朱音を見てよだれを垂らしている。しかし、次第にその姿は塵となって消えていった。 「早く中へ」  響は朱音に振り向くこと無く、声をかけてきた。重低音で構成された低い声は威厳があり、圧力を感じる。新太郎の透き通った声とはまるで違うが、新太郎から感じる圧力とは似たものがあった。朱音は響に守られたのだと悟った。野菊の手を引っ張り、急いで中に入る間も、響は妖から二人も守るために刀を振るった。後ろは見えないが、塵が周りを漂っている事から、かなりの妖が襲って来ているのだと感した。  門の中は外と比べるととても静かなものだった。外にいた妖は一匹もいない。しかし、禍々しい空気は庭に近づくほど強くなっていった。新太郎は一足先にその元凶を見上げていた。野菊はそれを見た瞬間、大きく目を見開いた。桜の木には大きな蜘蛛が絡み付いていたからだ。八本の足は幹に巻付き、枝は白い綿飴に見えるほど蜘蛛の巣が張り巡らされ、周りの花々にもひろがっていた。蜘蛛は背中にある大きな口を開いては、糸を垂らしていった。野菊に取り憑いていたような紫色の炎を纏ったその糸は、地面に到達すると、その周りはたちまち色が変わる。 「これは…」  野菊が震える側で、朱音も自分より大きく、恐ろしい空気を出している妖に声を失った。 「これは鬼蜘蛛ですよ」  新太郎はいつもの変わらない声色で朱音に話しかけた。 「鬼蜘蛛…ですか?」 「ええ、鬼蜘蛛は人の念が強い所を好み、心につけ込み、それを餌として大きくなるのです。酒井さんのご主人が弱っていったのもこの鬼蜘蛛のせいです」 「大きい…」 「はい、かなり肥えていますね。もうこの家だけでは餌が足りず、低級の妖までくらっているようです」 「だから家の前に沢山妖がいたんですね」 「あれはこの鬼蜘蛛が出している匂いに釣られて集まっているのですよ」 「旦那様…あの、これ…退治できるのですか?」 「さぁ、やってみないとわかりません。しかし、退治しただけでは、酒井家の問題は解決しません」 「え、それはどういうことですか?」  朱音が新太郎に尋ねた時、塔子がお茶を持って庭の前の縁側にやって来た。 「大森さん、いかがですか?何か分かりましたか?」  塔子さんは何も感じていないのかしら…  見えない事が当たり前なのに、この大きな蜘蛛を前にして、平然とする塔子が不思議で仕方なかった。 「朱音さん、塔子さんと中に入っていてください。僕はこれを祓います」 「分かりました。行きましょう、塔子さん」 「えっ、え?どう言うことで…」  朱音は塔子を無理矢理立たせて奥に連れて行った。野菊の時のように新太郎の邪魔をするべきでは無い事は、分かっていた。むしろあの場にいては、新太郎の足手まといになるだけだ。朱音は塔子を支えながら、ちらっと新太郎の方を振り向いた。銀髪と面の赤い紐が鬼蜘蛛が発する瘴気で揺れてもなお、新太郎は鬼蜘蛛を見上げていた。自分より大きな存在を前にしても、声色一つ変えない彼に頼もしさを感じる一方、心配な気持ちが湧いて来る。 「さてさて、ずいぶんと大きくなりましたね」  新太郎の声に鬼蜘蛛がふー、ふーと反応した。その度に、大きな風が吹く。 「もう話すこともできませんか」  ふっと笑いながら、着物の袂から醤油さし程の大きさの小さな壺を出した。そして庭に円陣を描き、その壺を真ん中に置いた。 「ここに入ってもらいますよ」  新太郎がそう言った瞬間、蜘蛛が大きく口を開けて白い糸を飛ばした。新太郎の言葉に危機感を感じたのだろう。糸には強い妖気を感じるが、新太郎は気に止めること無く、円陣の中で、小さな声で何かを唱え始める。糸は新太郎を捉えようとしたが、横からすぱっと切れた。響が新太郎の頭上を通り抜けたからだ。鬼蜘蛛は新太郎の声に身体を強張らせたが、最後の力を振り絞るかのように大きな叫び声と共に糸の量を増やし、何度もそれを吐き出した。しかし、全て響によって切り捨てられ、ぱらぱらと落ちていく。新太郎はひたすら集中して口を動かしていく。すると、桜の木の幹にしがみつく力が段々と弱くなり、大きな鬼蜘蛛は壺に引き寄せられるかのように吸い込まれた。壺はかちっと蓋を閉め、札がぺろっと貼られた。鬼蜘蛛がいなくなった事から、澱んでいた空気がだんだんと晴れていく。 「ふー…」  新太郎は深呼吸をしながら、息を整えた。 そして、震える右腕を左手でぎゅっと掴んだ。首筋が次第に汗ばみ、掴む手にも力が入る。右手は次第に大きく震え、着物の袖から魚鱗が逆立っているのが見えた。 「主様」 響の掛け声で、新太郎は思いっきり右手を押さえ込んだ。 「はぁ…はぁ…」 すると、右手の震えは収まり、新太郎は息を整えた。 「主様」  響は再度声を掛けた。 「こいつが、早く食わせろと言うんだ」  新太郎は右腕を眺めながら答えた。着物の下で、魚鱗がうねって動いている。 「主様、これ以上は身体に毒です」 「分かっている。だが契約なのだから仕方ない。僕はこれのお陰で力を得ているのだからね」 「…」 響は何も言えずに、狐の面を下に向けた。 「さぁ、朱音さんと酒井さんの所へ行かないと。問題はこれからだからね。引き続き、外の事は任せたよ、響」  新太郎は桜の木を背に、庭から玄関に向かって歩きはじめた。 つづく
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