入社

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入社

 神宮寺財閥――世の中にそんなものが存在することを片瀬が知ったのは、3年前だ。22の誕生日を迎えたすぐ後だった。  高校を卒業し、上京して劇団「シューター」に入団。やっとセリフのある役がつくようになった頃のこと。 「お前の演技、オレは好きだよ」  そこにはそう言って何かと相談に乗ってくれる先輩がいた。伊崎(いさき)京介(きょうすけ)という。面倒見がよく、劇団員のまとめ役でもあり、みなに兄貴のように慕われていた。片瀬も同じで、彼と一緒にずっと演劇を続けていきたいと思った。  が、片瀬が誕生日の祝杯を劇団のみんなと軽くあげた帰り道、電話が不吉に鳴った。 「こちらは坂上総合病院です――」  母が倒れた。  父が死んで半年も経っていなかった。父の営んでいた酒屋を母が継いだのだが、そうした経営主の交代期に周りの同業者から圧力がかかることは、珍しくないという。  小切手の不渡りを出したという全くのデマがどこからともなく流れ、信用取引ができなくなった。不良品が多いとの根も葉もない噂も立って、客が減った。経営は行き詰まり、精神的にも体力的にも母は倒れて当然の状況に追い込まれていたと、近所のおばさんに聞いて初めて知った。  母の手術は無事終わったが、手術費は予想外に高かった。更に入院を続けなければならず、退院の目処は立っていない。  酒屋は倒産した。そして連帯保証人になっていた片瀬が銀行からの借金を背負うことになった。演劇どころではなかった。  劇団のみんなは食うや食わずの貧乏生活。ただ演劇に対する熱い思いを共通項に、電気が止められようが家賃滞納で大家に追い出されようが、誰もが夢をあきらめずに歩いていた。片瀬も何があってもそうしたいと思っていた。  が、こうなっては、収入にならない演劇は道楽としか言えない。道楽に興じている場合ではない。就職するしかなかった。迷う余裕はなかった。  伊崎に退団を申し出ると、彼はタバコをくわえ、火をつけながら笑った。 「よかったな」 「え?」 「そういう苦労は全部演劇人の糧だ。取材だよ。経験って言う名の取材だ」 「先輩……」 「いつか戻ってこい。待ってるからな。いいな、大将」  伊崎は相手をいたわるときに、大将――そう呼びかける。  そして「餞別だ」とテーブルに封筒を置いた。中を見ると、よれよれの千円札や小銭がギッシリだった。全部で10万ほどあった。  劇団員達からのカンパだと伊崎は言った。彼らのギリギリの生活を考えれば大変なことだ。この10万は金額の何倍もの価値がある。だから遠慮の言葉を口にすることもできなかった。 「ありがとうございます……」  消え入りそうな声で礼を言い、大切にしまった。  そして翌日から正社員の面接を片っ端から受け始めた。が、片っ端から落ちた。  受かるまではバイトの掛け持ちで食いつなぐしかない。そんなうちの一つが、神宮寺産業のビル掃除の仕事だった。
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