入社

3/5
前へ
/91ページ
次へ
「でしたら、来月に組織再編成を完了するというスケジュールは延期していただかないと……」  周りが慌てた。誰も専務に意見はしない――そんな暗黙の了解を、このとき片瀬はまだ知らなかったのだ。  神宮寺はほとんど表情を変えずに片瀬に目をやった。冷然と見下した、こちらを人とは思っていない目だった。 「スケジュールは変えない。来月のままだ。オヤジの決めたことだからな」  まだ報告も説明も全部すんでいないのに、神宮寺は不愉快そうに席を立った。  気まぐれと思いつき。こんな気分屋が上司だとメチャクチャに大変だ。その会議のすぐ後から、総務部総出で駆け回った。異動人員のリストアップ、新部の部屋の確保、プレートや印鑑や名刺の手配、仕事内容の線引き……夜中も休みもない。  同僚に工藤(くどう)(たもつ)という入社2年目の男がいた。片瀬より年下だったが、すでに結婚していて子供が生まれたばかりだった。 「奥さん、体調崩してるんだろ。ごまかしといてやるから今日は帰れよ」 「いや、まずいっスよ」  専務の一声以来、総務部部長はヒステリックになっている。気まぐれな思いつきを口にするだけの上は、下の負担がどれだけになるかを知らない。一方的にそれを受けるだけの部長の愚痴と叱責と無茶振りが加速。工藤の人のいい性格は、恰好の餌食となっていた。 「誰かに怒ってればあの人、他に気が回らないからさ。オレが怒られといてやるよ」  で、片瀬が代わりにガミガミ延々怒られた。そんなヒマがあったらやること山ほどあるだろう、といった反発を滲ませながら片瀬は手だけは動かしていた。そういったことには鈍感な部長はひとしきり愚痴ると自分はどこかへ消えていった。マスト事項は全部こちらへ丸投げだ。  けれどおかげで工藤は3か月ぶりに子供の寝顔を見、妻と一緒に食事を取ることができた。 「『私もこの子もあなたの顔、忘れちゃうところだったわ』だって。危なかった~」  翌日苦笑しながらそう片瀬に報告してきた。「借り一つですね」とも。貸し借りってものでもないと思うのだが、工藤のそういう律儀なところが片瀬は好きだった。  そんな風に下の苦労を考えもしない神宮寺だが、意外なことにその気まぐれな思いつきは効果満点だった。クレームをわざわざ募集するという斬新な発想は、賞金目当ての人々から恐ろしいほどに情報を集めた。  その情報を元に営業は行動した。購入者の需要がハッキリし、隠れた要望が浮き彫りになり、クレーム処理も効率が良くなった。元々クレームは宝の山だという。その価値を神宮寺は何倍にも光らせるきっかけを作ったことになる。  的外れじゃない。自分で責任を持たないだけだ。やる気はないが、カンがいい。片瀬は神宮寺のことをそう思うようになった。
/91ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加