入社

4/5
前へ
/91ページ
次へ
 神宮寺産業ビルの2ブロック先の喫茶店。少し端の欠けた「すばる」という看板。  片瀬と工藤が愛用している店だ。時々ここにガス抜きに来る。ようやく組織再編成の大仕事が終わり、少し忙しさの波がおさまった。いつも以上にゆっくりとコーヒーを味わいたかった。 「あちっ……」  啜り損ね、コーヒーがテーブルにポタポタと散る。 「片瀬さんて何でそうなんですか。毎度いきなり勢いよく吸い込みすぎ。猫舌のくせに」  思わず笑った工藤もそのせいでコーヒーを吹く。2人でおしぼりをネクタイやテーブルに押し付け合った。 「だって熱いうちが一番好きなんだ」  うまく啜るのは2度目以降。学習しないな、と片瀬は苦笑する。  そうして工藤とヨタ話に花が咲き、コーヒーのお代わりをするのがお約束だった。3杯目のコーヒーが空になったところで、2人は財布を出しながら立ち上がった。 「――ごちそうさま。おいしかったよ、沙樹(さき)ちゃん」  いつものように、片瀬はウエイトレスの沙樹に微笑んだ。  沙樹はぴょんと飛びはね、元気よく厨房からレジへ向かった。2人はまだテーブルの横に立ったまま、今日はどっちがおごるだの何だの言いながら、じゃんけんをし始めた。  沙樹はレジの横で頬杖をついて、片瀬の横顔を嬉しそうに見ている。 「なーに見とれてるの」  マスターが沙樹をからかう。 「片瀬さんの全部。特に『ごちそうさま』って優しい声がさ……あの物静かな言い方が好きなんだ」  からかい甲斐もないほど沙樹は素直で、マスターは肩をすくめた。  そのとき、入口のドアの鈴が鳴った。片瀬が顔を上げると、ネズミを連想させる貧弱な外見の男が入ってきた。神宮寺の秘書だ。続いて当然ながら神宮寺。2人とも肩が多少濡れている。  あまり会いたくない相手なので、片瀬と工藤は死角の席に座り直し、メニューなどで顔を隠した。  この店は暖かい雰囲気をたたえており、料理もいけるが、庶民的で決して高級感はない。現に神宮寺は入るなり、テーブルのビニールクロスの焼けこげに眉をひそめた。 「こんなところで食事するくらいなら外で待つ」  そのままくるりと踵を返す神宮寺を、ネズミ秘書がヘコヘコしながら押しとどめる。 「ですが、JAFが来るまで時間がかかりますし」  突然の雨、しかも車の故障らしい。
/91ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加