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第一部 序 Ⅰ.
氷が、溶け落ちる音。
「夢を見るんだ」
それから、声が響いた。
揺れるウイスキーから目を向ける。グラスから口を離し、彼は瞳を流した。
「夢」
蝋燭の光が揺れ、シェイカーの声が止む。次いで、グラスに注がれるカクテルの音。
「どんな夢を」
「……さて、どんな夢だろうね?」
すると、彼は惚けたようなことを言う。
いつもよりも甘い声色と、グラスを持つ手に項垂れる姿。私は思わず息を吐いた。
「君、酔っているのか」
残念ながら、酔っ払いの相手をするような趣味はない。マスターへ指を立てチェイサーを頼む。その様子を咎めるわけでもなく見ていた彼は、愉快そうな笑みを浮かべた。
「ふふ、そうだね。酔っているのかもしれない」
「珍しい」
「だから、これは酔っ払いの戯言だと思って聞いてくれるかい」
酒へ伸ばす手を止める。無口のマスターは、チェイサーを滑らせるように置いた。
「夢を見るんだ」
揺れる手から離れたグラスが、小さく音を立てる。
「ひどく不気味で、とてつもなく甘美な夢を」
俯いた彼の顔に、何かしらの表情を見つけることは出来ない。しかしその声に甘さは一切なく、くぐもった静かな色のみが滲んでいた。
少しの間。
その後、彼は顔を上げてマスターへ新しい酒を注文した。客に忠実な彼はボトルに手を伸ばす。
「君は」
私は、汗をかくグラスに爪を立てた。
爪間の冷えた感覚に、狭くなりかけていた視界が広がる。静かにこちらを見る彼の表情も、はっきり見えた。
「うん?」
「君はそれを、悪夢だと思うのか」
彼は私の質問を受け、考えもしなかったとでも言うように目を見開いた。
手元にウイスキーに満たされたグラスが届くと、彼は同じ色の酒へ静かにその視線を流し込む。酒の輝きを瞳に閉じ込め、やがて彼は小さく微笑んだ。
それが肯定だったのか否定だったのか、今になっても私には分からない。愚問だとでもいうようなその表情に、私はそれ以上の質問を呈することが出来なかったのだ。
焼けるようなアルコールが、静かに喉を流れた。
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