子育てから逃げたかった

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 (ひろし)さんの愛には意思があると思った。  結婚を継続する強い意志がある。そんな気がした。  私と一緒にいること、出かけること、旅行することを望んで、生活の質を上げるためにお金や時間に手間ひまをかけて、瑠璃(るり)の寝かしつけも担当してくれた。 「素晴らしい夫」だった。寛さんはいつも素晴らしい夫であろうとしていたし、実際にそうだったんだと思う。  その一方で、時々感情を爆発させて翌日にはコロッと忘れている。そういう素晴らしくないところもあった。  別に酔っているわけでもないのに、酔っぱらって荒れるみたいに深夜に怒鳴り散らすことがあった。  瑠璃が夜遅くに寝ない時や、私が夜更かしをしている時に怒鳴ることが多かった。 「どいつもこいつも勝手にしやがって、もういいよ……俺も好きにするよ!」  捨て台詞(ぜりふ)を聞きながら、私は心を無にするように何も感じないようにしていた。  周りから見れば素晴らしい夫だろうし、実際に素晴らしい夫なのだと思う。  日本屈指の鉄鋼メーカー、日本製鋼(にほんせいこう)株式会社に勤務して年に1000万稼ぎ、家事と子育てを分担する。出かける私を車で送り迎えしてくれて、休日に瑠璃の面倒を見て私に昼寝させてくれる。  周りから見れば完璧で、優しい夫だったと思う。  それでも夜中に怒鳴り散らされるのは(こた)えた。時々頭に血がのぼってしまうストレートな激情家ならまだしも、冷酷な態度で弱みを突くところもあって、結婚生活が長くなるにつれて気を遣うようになっていた。  弱みを握られないようにした方がいいのではないか。何となく油断ならないと思ってしまう。気にしすぎかもしれないと思いつつも、警戒するクセがついてしまっていた。  ある日言い争いになり、「出て行くから」と口走ってしまったことがあった。 「ふうん。どこに行くの?」と寛さんは言った。冷たく見下すような表情だった。  どこにも行くあてはなかった。 「とりあえず漫画喫茶に行って、ウィークリーマンション探したりとかするよ」  顔色ひとつ変えずに聞いている寛さんに話す言葉は、散らかったリビングに(むな)しく響いた。言葉が上滑(うわすべ)りしていく感じが苦しくて恥ずかしくて、ここにいるのがつらいと思った。  私は友達を作るのが苦手で、寛さんの転勤でやってきて住んでいる芦屋(あしや)に友達は1人もいない。時々話す機会があっても、それとなく育ちや出自(しゅつじ)を確認されるような会話がどうしても好きになれない。  実家は横浜で、夜中に喧嘩して思い立って行けるような距離ではない。新幹線の距離だ。  私には近所の友達がいないことを、寛さんはよく知っている。日頃からよく話しているから。  1人で生きていく勇気なんてないことも、きっとよく分かっている。私の価値観を知っているから。 「ふうん。どこに行くの?」  この言葉は分かっていてあえて弱みを突くような、そんな口ぶりに聞こえた。  この冷たい響きを、品定めするかのような冷酷な表情を、今でも忘れていない。  私は1人で外に出て、街の光を目指して歩いた。落ち着いた住宅街じゃなくて、お店の(あか)りが見たいと思った。そういう温もりを感じたかった。夜も明るく(にぎ)わっているような。  ひとしきり歩き回って街のにおいを少しだけ()いだ。そしてそのまま帰宅した。短い家出ならぬ散歩をして、気持ちは(おさ)まらぬままに帰ってきた。  寛さんは、私が少しでも「引いた時」に、絶対と言っていいほど追いかけてくれなかった。 「出て行く」と言ったら「出て行かないで欲しい」と言って欲しい。  でも絶対に寛さんはそう言わない。そんな甘えは許さないし、興味を示すこともない。  そういう人なんだと思うようになった。反対されることを期待した発言はしないように、言葉に充分に気を付けようと自分に言い聞かせていた。  それでも時々、喧嘩すると言ってしまう。 「私のこと好きじゃないよね?? 好きだったらあんな冷たい態度をとるわけないよね?」 「それもあるけど、それだけじゃない。好きなところもあると思うんだよね。だからこうやってみなみのために頑張ってる」  こんな「部分否定」の返事を聞くたび、身体から力が抜けていくみたいだった。  どうして全否定してくれないのか。こんな時くらい、全否定してくれたっていいじゃないか。 「私のこと好きじゃないよね?」  こんな訴えを、部分的にでも肯定しないでくれよ。好きなところ「も」あるなんて、そんな正直に言わないでくれよ。そんな正確に、部分否定しないでくれよ……!! 「そんなことないよ」って言ってくれれば、それだけでいいのに。 「本当は否定して欲しい嘘」を口に出してしまっては、その度に激しく後悔していた。
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