Drip blue

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 瀬川浩太(せがわこうた)はベランダからの眺望を楽しんでいた。段ボールの積まれた室内を散策するより、心が開放的になる。  分譲住宅が建ち並ぶ中、玉遊びも許されそうな広々とした公園が一際目を引く。黄色い外壁の建物が、噂に聞く保育園だろうか。  この近辺が子育て世帯に人気だという理由が、築年数15年のマンション2階からも伝わってきた。 「そろそろ挨拶回り行こう」  瀬川が直下の駐輪場を確認していると、妻の羽菜(はな)から声がかかった。振り返ると、デパートの紙袋がテーブルに置かれていた。引越し前に粗品として買ったタオル類が入っている。 「今の時代、挨拶回りなんてしないと思うけどな」 「お隣さんぐらいには顔見せないと」  止む無く、紙袋を携えて外に出る。まだ玄関には、1軍と2軍の靴が一緒くたに並んでいた。 「この家も留守かな」 「里帰りでもしてるんじゃないか」  羽菜は同じフロアの左右3部屋までを『お隣さん』と認識していた。ただ、業者の費用や会社の都合上、不謹慎にも仏様行事のお盆に引越したために、多くが不在だった。残りの住人も、ドアから身体を半分ほど乗り出すだけで、即座に貼り付けた笑顔を引っ込めてしまった。 「ここでの子育て、心配になってきたかも」  羽菜がまだ平坦なお腹を擦りながら弱音を吐く。 「俺が居ても?」 「えー、浩ちゃんは頼りないしなー」  嫌みを言いつつも、朗らかな表情を向けてくる。夏の陽気と違って、痛みの伴わない明るさが彼女の魅力だった。溌剌さに染まった黒髪に思わず触れたくなる。 「だったら、上下にも行っとくか。騒音問題とか怖いし」 「そうだね。それもいいかも」  瀬川たちが住むちょうど真上、304号室に足を運んだ。  マンションと言いつつも、最上階が3階のため、エレベーターは設置されていない。外階段を数歩登っただけで、背中に汗が滲んだ。猛暑の中、他人の荷物を運んでくれた引越し業者に畏敬の念を抱きつつ、インターホンを押した。 「はい」「下の階に越してきた者ですが」「少々お待ちください」  落ち着きを払った女性の声が、機械を通して聞こえてくる。表札には丸まった字体で『濱田(はまだ)』と書かれていた。扉が開く。 「初めまして。瀬川と申します。引越しのご挨拶を、と思いまして」  瀬川は目の前に現れた細身の女性に定型文を読み上げた。年齢は羽菜と同じく20代後半だろうか。ただし、前髪は無く、センターで分けられた緩やかな曲線からは大人の妖艶さを窺い知ることができた。 「ご丁寧に、ありがとうございます。濱田と申します。分からない事があれば、何でも訊いてくださいね」  軽く顎を引いた濱田の瓜実顔に数本の髪がかかる。それを耳元へ搔き上げる仕草に始まり、どこを取っても隙が無く、引き寄せられるが決して触れられない危うさが彼女にはあった。 「せっかくなんで、ゴミの事とか訊いていいですか」 「はい、もちろん」  羽菜は、漸く自分たちを好意的に迎える住人に出会えたことが嬉しい様子だった。初対面とは思えぬ程、無遠慮に濱田と言葉を交わしていく。 「じゃあ、このマンションだと小学生になる子が殆どなんですね」 「そうですね。私の見立てが正しければ、ですけど」  話は近隣の子育て事情にまで及んでいた。直接聞いたわけではないものの、濱田に子供はいないようだった。 「何週目になるんですか」  濱田は手土産を大事そうに受け取ると、羽菜に訊ねた。 「今で10週目です」 「臨月は来年ですか、楽しみですね」 「まだ性別も分からない状態ですけど。名前を考えるだけでワクワクしちゃって」 「私の両親なんて、酔った勢いで付けたのに」  2人は冗談を交えて笑い合っている。瀬川が区切らなければ、永遠に続く気配すらあった。 「今後とも宜しくお願いします」  最後に一礼をすると、完璧な身なりのまま、濱田は扉の奥へと消えた。外出の予定が無いのであれば、随分と亭主関白なのかもしれない。 「綺麗だし、良い人だったね」 「そうだな」 「じゃあ、最後に下だけ行こ。あとは後日ってことで」 「分かった」  空返事の合間も、先程までの女性が残像として離れなかった。1階の住人が出てきたのか、瀬川は覚えていない。
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