Drip blue

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 秋雨が季節の移り変わりを告げる頃には、新居での生活にも慣れてきていた。  瀬川は一般企業の経理職に就いていた。伝票処理といった雑務は新入社員や派遣の仕事とされており、グループでも中堅の瀬川は、自宅で大半の仕事をこなすことが出来る。四半期報告書を作成する繁忙期以外は、週3出勤で間に合っていた。  一方で、羽菜は妊娠が発覚してからも、金融機関の一般職として都市部にある支店に通い続けていた。以前の住まいからは距離が近づいたものの、育児環境を最優先としていたため、交通の便には難がある。それでも、これを機に退職、といった選択肢は考えていないようだった。 「じゃあ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」  いつものように玄関まで羽菜を見送ると、瀬川はまず曜日を再確認する。水曜日だと把握した上で、外の天候に目をやると、なぜか雨脚は弱まって見えた。  未読メールを開いて、必要な返信を手際よく済ませる。珈琲を飲む。8月の月次決算資料を作成しつつ、頃合いを見て、寝巻からランニングウェアへと着替えた。仕事をサボるだけにしては、浮足立っているのを自覚していた。  * 「瀬川さん、こんばんは」  挨拶回りから数日が経っていた。羽菜との交友は続くだろうと予見していたが、濱田は瀬川に対しても、当初の姿勢を崩さなかった。背中から受けた耽美な声に、思わず背広を正してしまう。 「お仕事帰りですか」 「ええ。濱田さんは、買い物とか?」 「いえ、パートが長引いてしまって」  家路の途中で話しかけられれば、自然と並んで歩くことになる。瀬川が逆の立場だったら、声を掛けたかどうか思案した。 「パート先はこの辺りなんですか」 「徒歩15分程度かかりますね。歩くの好きなんです」  世間話は濱田への問いかけが大半を占めた。彼女は結婚して3年目を迎えていた。旦那の仕事は転勤が付き物らしく、今も単身赴任をしているらしい。  子供もおらず一人で暮らしている濱田は、自宅から1.5kmほどに在る幹線道路沿いのカフェで働いている、という事だった。 「一人で暮らすにしては、今のマンションは手広ですよね」  家賃補助があるにしても、旦那と一緒に移り住むのが得策のように思えた。瀬川は純粋な疑問を口にしたが、即座に後悔する。  頑なに隙を見せない濱田が、ほんの一瞬、表情を曇らせた。歩調にも小石に躓いたような、些細な乱れが生じる。 「そうですね。別居の意味合いが強いのかもしれません」  濱田は、瀬川の受けた心証が嘘のように、あっけらかんと言った。  そのあと、「羽菜さんが羨ましい」と零した言葉には気付かぬ振りをした。  *  瀬川はレギンスで引き締められた足を軽快に運んでいく。頬を濡らす小雨が汗と混ざりあい、傘を差さぬ背徳感からか、気分は体温とともに高揚していった。踏み込んだ右足に水溜まりが跳ねる。  途中、濱田と帰路に就いた日を思い出していた。予期せぬ吐露に動揺し、瀬川はその場を取り繕うことが出来なかった。重たい空気のまま、二人は階段で別れた。しかし、翌日以降、濱田は何事もなかったように、瀬川と気さくに接し続けた。  瀬川が走る横を、一台、また一台、と車が抜き去っていく。前方に見慣れた看板が現れる。  踊り場で偶然会って立ち話もした。羽菜を交えて食事をしたこともあった。その度に、真横を車が走り抜ける感覚に襲われる。とても危険で、決して近づいてはいけない。それでも、再び彼女を前にすると、最後の一台ではなかったことに安堵する自分がいた。 「羽菜さんが羨ましい」  次にこの言葉を聞いた時、また聞き流せる自信が無かった。  バックパックに仕舞ったタオルで濡れた髪を乾かす。濱田にも渡した手土産の余りだ。自動ドアが開く。レジには、予想通り、濱田(すみれ)が立っていた。 「またサボりですか」  菫は客商売に似つかわしくない控え目な笑みを浮かべた。自分だけに向けられた証拠のようで、瀬川は嬉しく思う。 「会社には内緒ですよ」 「羽菜さんにも、なんですよね」 「助かります」  羽菜は瀬川が仕事を中断して、趣味のランニングに勤しんでいる事を既に知っている。瀬川が隠したいのは、菫の店に通い詰めているという事実だった。 「大丈夫ですよ。秘密は得意なので」  彼女はか細い人差し指を唇に乗せた。それを合図に、瀬川の耳から音が消える。  もう、誰も見ていない気がした。
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