Drip blue

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 瀬川は珍しく仕事に追われていた。羽菜を送り出した後、珈琲を飲んで以降は、パソコン前に釘付けとなっていた。もうすぐ第二四半期がやってくる。  通常であれば、そこまで八面六臂の働きが求められる時期でもない。が、親会社の会計処理の変更により、子会社である瀬川の勤務先にまで皺寄せが来ていた。  マニュアル化していた決算ファイルを書き換えながら、瀬川の脳内でも混沌が整理されていく。仕事に打ち込むことで、菫の存在が希薄になっていった。  これでいいんだ、と自らに言い聞かせる。  瀬川が妻子持ちの立場にありながら、疚しい感情を抱いたのは、紛れもない事実だった。ただ、それは一時の感情に過ぎない。多くの夫婦が性交渉から疎遠になることで、こうした気の迷いに直面すると聞く。至って正常な反応で、自分は、羽菜を愛している。  そして、何よりも。  瀬川には菫の気持ちを確かめる術が無かった。  夕方になり、自然光が部屋から失われていく。朝から開放したままのカーテンを閉めに回ると、インターホンが鳴った。ネット注文の履歴を思い浮かべながら、「はい」と親機に返事をする。 「304の濱田ですが……」    菫の声が、羽菜と過ごすリビング内に入ってくる。瀬川は咄嗟に妻の影を探した。 「待ってください。直ぐに出ます」  先に部屋の電気を付けると、一呼吸おいて、玄関口へと向かった。 「どうされたんですか」  平静を装って尋ねた。菫は髪を後ろで束ねており、耳横から垂れた後れ毛が、ケーブルニットから覗く鎖骨にかかっている。 「お仕事中でしたよね。すみません」  肩をすぼめると、封筒を瀬川に差し出した。 「これがウチの郵便受けに混ざっていたんです」 「あ、わざわざありがとうございます」  瀬川が受け取ると、確かに自分宛になっていた。左下には弊社の名前が入っている。組合関係のものだと、何となく想像できた。  瀬川としては、この上ないイベントだった。ただ同時に、自分たちの郵便受けに差し込めば事足りるのではないか、という考えが過る。 「書かれている社名って、瀬川さんのお勤め先ですよね。もし重要なモノであれば、直ぐにお渡しした方が賢明かと思いまして」  瀬川の胸中を察したかのように、菫が言葉を足す。 「さすが、抜かりないですね」 「そういう性格ですから」  彼女は目尻を下げて微笑んだ。普段から笑顔でいる羽菜と違って、希少性を感じる。  瀬川が次なる会話の糸口を探していると、「それでは」と言って、菫は背を向けてしまった。 「あ、はい」 「またお店にも入らしてください」  10分程度は会話を愉しむのが常だった。律義に飼い主を待つ犬のように、長々と視線を送る。  菫は「時間が時間なので」と漏らした。  そこで漸く妻が帰ってくることに気づいた。  その日の夜は、まだ暑さが残っていた。掛け布団を一枚ずつ用意しているものの、羽菜の体温だけで微睡みを覚える。 「ねえねえ」  瀬川の方向に寝返りを打つと、羽菜が甘えながら囁いた。少し張りの出てきたお腹の感触が、寝巻越しにも伝わる。 「どうしたの」  顔にかかった髪を掻き分けると、すっぴんで稚い彼女と目が合った。 「浩ちゃん、最近あの人と会った?」 「あの人って?」 「濱田さん」  温まった身体が急速に冷えていく。間接照明の明かりだけでは、羽菜の表情が上手く読めない。 「たまに挨拶はするけど、どうして?」  空回りしないように、出来るだけ丁寧に言葉を発した。 「私の気のせいならいいんだけど、ちょっと避けられてる気がするの」 「そんな風には感じなかったけど」  瀬川が危惧した状況とは異なるようだった。逆立った全身の毛が平静を取り戻す。 「もちろん私にも挨拶はしてくれるんだけどね。前よりも冷たい感じがしてたんだ」 「これは、俺の想像に過ぎないんだけどさ」 「うん」 「濱田さん、子供が欲しかったんじゃないかな」  薄々感づいていた事だった。旦那と育児環境の整った住まいを選び、時折、羽菜への羨望を覗かせる。初めて菫に会った時、直ぐに出産を来年だと言い当てたのにも、少し違和感があった。  不妊治療を受ける女性は年々増えている。もしかしたら、旦那との疎遠にも関係しているのかもしれない。 「そっか。私、傷つける話ばかりしてたかも」  瀬川の黒塗りを施した説明に、羽菜も納得した様子だった。  二人は揃って天井を仰いだ。暫くすると、隣から寝息が聞こえてくる。  菫が羽菜を避ける理由。  瀬川にはもう一つだけ、心当たりがあった。
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