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濃い海色のマウンテンバイクに跨り、勢いよくペダルを踏み込む。細い車輪がぐるりと回って僕は住み慣れた町の風を浴びた。5月の暖かな陽気が肌を舐めていく。
東京都荒川区はひどく平均的な町だった。駅前に高いビルはあるものの、少し離れれば下町のような雰囲気が漂い、時折スカイツリーの方から流れてくる観光客が行き場をなくして彷徨っている。最近じゃ土地開発も盛んになっているものの、僕が住む南千住はその影響をまるで受けていない。遠くに高いビルが見える、どこか懐かしい町。
天王公園の前を通り抜け、住宅街の前でゆっくりと自転車を止める。細い路地はトラックが一台ようやく通り抜けることができる狭さで、そこに細長い家がいくつも建っていた。一見適当に敷き詰めたようなこの町並みも、17年焼き付いたいつもの光景である。
「おはよう…あれ、今日体育あるっけ。」
2階建ての河村家はキャラメルを水で薄めたような外壁だった。ブリュレの焦げた表面のような扉を中途半端に開けて、河村智は眉にかかる伸びた前髪を掻き混ぜる。どうやらサトシは僕が背負った学生鞄の不自然な膨らみを見たのだろう。だからこそ僕は笑って首を横に振った。
「違うよ。隣のクラスの奴から借りててさ。今日返すんだ。」
「なんだよ。朝からビビらせるなって。」
そう言って窪んだ車庫の壁から、疲れたようにもたれるマウンテンバイクを起こす。サトシの愛車は眩しいほど白いフレームだった。
「カズ、古文のプリントやった?」
その言葉を聞いて少しばかり不安になった僕は、背負っていた鞄をぐるりと前に移動させた。ファスナーの先端には小さなプレートの中に『望月和哉』と、僕のフルネームが描かれている。いい加減これも子供っぽくて外したいと思っていた。
中を漁り、数学の教科書の裏にある紙を見てほっと胸を撫で下ろす。
「無事だわ。持ってきた。」
「忘れたら洒落にならないしな。じゃあ行こうぜ。」
返事をすることなく、僕らは同時にペダルを踏み込む。細い路地を抜けると大通りにぶつかった。
紺色の隅田川の上に架かる千住大橋は、足立区へ続く短いスロープのようなものだ。しかしその上を覆う水縹色のアーチはかなり目立っている。僕らは車道の端を一列に、トラックが行き交う道を駆け抜けていた。
僕らが通う都立東千住高校は自転車で6分ほど。真っ白な校舎は僕らが入学したと同時にリフォームが完了したらしく、以前までは壁にヒビが入っていたなどと、担任の村瀬克行は話していた。
サトシとは家も近く、小学校からの仲だった。何度も同じクラスでお互いの趣味も理解している。それほどまでに僕らは付き合いが長い。前を走るサトシの背中は少しばかり大きく見える。おそらくサトシから見ても僕の背中は大きく見えているのかもしれない。まだまだ成長期は終わっていなかった。
やけに幅が広い車道を抜けて二車線の道路に滑り込む。左手に見えた校舎まで向かって行く途中、遠くから聞き慣れたエンジン音が耳に入った。
「よう、チャリ組。精が出るな。」
原付バイクに跨った高山柊一はネクタイを着けず、金メッシュが入った髪が白いヘルメットの縁から溢れている。速度を落として並走し始めたシュウからは微かにタバコの香りがした。
「シュウは楽でいいなぁ。」
「カズも原付買えよ。ああ、免許ねぇのか。」
お先、と言ってシュウは速度を上げる。ペダルを漕いだまま前のサトシに声をかけた。
「ねぇ。シュウってずっとバイク通学なの。」
「そうだよ。もう一台持ってるらしいけど。」
サトシとシュウは1年生の頃同じクラスだった。比較的校則が緩い東千住高校はアルバイトはもちろんの事、きちんと手続きを踏めばシュウのようにバイク通学も許されている。最も制服の乱れは何度も注意されていたが、彼は俗に言うヤンキーだった。
噂だけで言えば計り知れない。隣町の中学を2つ潰した、パトカーを廃車にした、暴走族にたった1人で突っ込み、30人を病院送りにした。あらぬ噂が肉付けされているものの、僕らは知っていた。シュウは喧嘩こそ強いかもしれないが、話してみると優しい雰囲気に溢れている。どこか穏やかなのだ。
開けたコンクリートの校門をくぐり、屋根付きの駐輪場に自転車を並べて停める。鍵をかけて玄関に向かう。ガラスの扉の前でシュウはこちらに手を振っていた。
「なぁサトシ、古文のプリント写させてくんね?」
くたびれたブレザーから覗く手はゴツゴツしているものの、女性のように細い。手を合わせて頼み込むシュウを見てサトシは鼻で笑った。
「いやだ。」
「なんでだよ。見せろや。」
「からべん1つで手を打とう。」
えーと言ってシュウは眉をひそめる。僕は学生鞄を肩にかけて言った。
「今日弁当ないの?」
「そう。母さんが作り忘れてさ。」
からべんは東千住高校購買部の名物だった。その名の通りただの唐揚げ弁当なのだが、300円とは思えないほどのクオリティーなのだ。衣はサクッと、中の肉はプリッとジューシー。甘い醤油の風味と肉汁が溶けた白飯を同時に掻き込むと、非常に絶品である。しかしその人気は凄まじく、昼休みに買いに行く生徒はモグリである。プロは2時間目が終わった10分で買いに行くのだ。
その競争率が異常に激しいことを知っているからか、シュウは少し考え込んでから表情を輝かせた。
「あ、いいや。交渉決裂な。ユキからプリント借りるから。」
「おい。ずるいぞ。」
玄関は広い。濡れた流木のような下駄箱がクラス毎に分かれており、僕らは入って真ん中にある箱の前に立って白い上履きを手に取る。履いていたスニーカーを中に仕舞おうとした時、僕は窪んだスペースに妙な物を見た。
「何だこれ。」
手紙だった。白い便箋は汚れひとつない。
「ん?果し状?」
「分かんない。」
隣から覗き込むシュウにそう答え、手紙を開く。中からは一枚の紙が出てきた。
『今日の放課後、16時半に体育倉庫の前で待っています。』
読み上げてもなおどういう状況なのかは分からない。すると左隣からサトシが言った。
「告白じゃない?」
その言葉に思わず固まってしまう。数秒後に茶化すような声でシュウが言った。
「いやいや、ないだろ!こんな癖っ毛マンに。」
そう言って僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。幼い頃からの髪質は今もなお畝ったままで、整えても寝癖のようだった。
「そうだよ。今時手紙で呼び出しなんて。LINEで呼び出すなら分かるけど。」
「だからさ、カズ。これ果し状だって。どうするよ。獲物いるか?」
何だよそれ、と言ったものの、どこかドキドキしていた。もし本当に告白だったらどうしようか。妙な期待感が胸の奥で沸々と滾る。
それから上履きに履き替えて3階に向かうまで、ポケットに仕舞った便箋に全ての神経が集中していた。
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