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シュウの奢りで豚骨醤油のラーメンを食べ、時折休憩を挟みながら僕らは江戸川の上を越えていった。 1時間ほどで到着した場所は、緑と広い空に囲まれた道路の途中を曲がった先にある。僕はその途中で看板を見た。 習志野市海浜霊園は東京湾に面した霊園だった。どこからか潮の香りもする。駐車場にバイクを止め、霊園の中に入る。墓石が数百個も並ぶ中を縫うように歩いていく。 一つの墓石の前で立ち止まると、シュウはその場にしゃがみ込んだ。灰色の石の表面には岸川智宏と彫ってある。 僕は会ったこともない故人に、黙って手を合わせた。しばらく目を瞑ってゆっくりと開く。シュウは落ち着いた声で言った。 「この間、命日だったんだ。ごめんな智宏。学校だったからさ。」 後半は墓石に向かって話しかけていた。ポケットから、先程立ち寄ったコンビニで購入した缶コーヒーを取り出す。少しだけ甘いやつだ。 かこん、と軽い音が鳴る。 「智宏、苦いの嫌いなのに無理してコーヒー飲んでたよな。甘党なのによ。」 突然吹いた海風にシュウの金メッシュがぼうっと揺れる。僕はぐしゃぐしゃに掻き混ぜられた癖っ毛を掻き上げた。 「なぁ、智宏。俺彼氏ができたよ。確かにお前に似てるかもしれないけど、でも好きなんだ。今年の5月に告白したんだ。それから何度か遊んで、夏に付き合った。でも、いいよな。俺お前の分まで幸せになるからさ。」 両手を合わせたままのシュウは、微かに震えていた。それは決して寒さのせいではなかった。 「なるべく、忘れていかないと、いけないのかもな。」 シュウの声も震えている。僕はゆっくりと隣にしゃがみ込んで、彼の肩に手を置いた。 「無理に忘れる必要ないよ。僕はシュウの昔の話、この人と付き合ってた話も聞きたいよ。」 僕の言葉にシュウは目を見開いて驚いていた。 「い、いいのかよ。」 「うん。僕らって全部割り切れるわけじゃないでしょ。楽しい思い出も、悲しい思い出も、苦しい、辛い、忘れたい思い出だって全部足跡なんだ。そうやって道を踏んできたから今の僕たちがいる。それを全部否定して無かったことにしちゃうと、今の自分も否定している感じがしない?もし後ろを振り向いて、その足跡を見て辛くなるんだったら、隣を見てよ。僕は絶対に離れないから。ずっとこうしているから。」 震える肩を強く抱く。ぐっと引き寄せると、柔軟剤の香りがした。徐々に体が温かく感じたのは、シュウが静かに泣いていたからだ。 僕もきっと1人は怖いのだろう。だからこうやって肩を抱いて、手を繋いで、時にはキスをして、お互いの孤独を粘土みたいにくっつけて安心するのだ。それは決して恥ずかしいことじゃないし、皆がそうやって生きている。その粘土の色が同じでも問題はないのだ。 ゆっくりとシュウが顔を上げると、僕越しに何かに気が付いたような表情を浮かべる。咄嗟にその視線の方を向くと、墓石と墓石の間で2人の男女が立っていた。ダウンジャケットに身を包んで、夫婦のように寄り添っている。その2人は僕ではなくシュウを見て、大きく目を見開いた。 「柊一君…?」 少しばかり老けているように見える。犬の毛のようにふわっとした女性の髪には白髪がある。それでも端正な顔立ちをしていた。 男性は僕と同じように癖っ毛だった。少しばかり薄い髪が風に揺れている。僕は恐る恐る言った。 「シュウ、知り合い?」 「智宏のご両親だよ…ど、どうして今日はここに。」 慌てた様子でシュウは立ち上がる。すると智宏の父はこちらに向かって歩きながら、少し神妙そうな顔立ちで言った。 「やっぱり、柊一君だったんだね。智宏の命日に来ないから、もううちの息子を忘れたのだと思ってた。だけど、命日を過ぎてからここに来ると、必ずお供え物があった。柊一君。私たちに内緒で墓参りに来ていたんだろう?」 どこか落ち着きがあり、微温湯のように優しい声だった。僕はシュウに言った。 「もしかして、両親に会わないために?」 一度だけシュウは頷く。前の2人との距離が近づく度に、シュウは萎縮するかのように黙り込んでしまう。 上品な声で智宏の母は、優しく毛布をかけるかのように言った。 「柊一君、もう自分を責めないで。お願い。あなたは何も悪くないのよ。」 「で、でも、お母さん、俺のせいで智宏は…」 そう言いかけたところで、智宏の父はその腕をばっと広げて僕らを包み込んだ。ダウンジャケットに埋もれてきつく抱きしめられる。その時に頬にぽつりと落ちたのは、父親の涙だった。 「何も言わなくていい。今の彼氏と、幸せなら。俺も母さんも、智宏だってそれを望んでいるから。だから、だから…ただ、幸せになれ…。」 その暖かさに、何故か僕まで泣いてしまった。初めて会った男性のダウンジャケットをぐしょぐしょに濡らしながら、僕とシュウは声をあげて泣いた。 海風が僕らを包み込む。岸川智宏の墓石の前で、4人は大声で涙を零していた。こんな僕らを岸川智宏がどんな思いで見ているかは分からなかったが、きっと笑っているのだろうと思った。
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