83

1/1
前へ
/93ページ
次へ

83

リビングのテーブルを囲み、僕は麦茶を啜る。ひどく冷えていて食道の存在を知らせてくれるようだった。 前に座る母と姉は終始無言だった。少し前から詳細を知っている姉に、慌てふためいて疲れ切っている母。午前授業だったためにシュウの訪問日が今日に決まったのだが、母はずっと忙しなく過ごしていた。 壁にかかった時計が午後2時を指す。その時遠くの方からバイクの走行音が聞こえてきた。 「あ、来たかも。」 ぼそっと呟いた瞬間、母は勢い良く立ち上がってキッチンへ向かった。昼食の際に使用した皿を執拗に洗い始める。僕は小さくため息をついて玄関へ向かった。 扉を開けて柵の後ろに立つ。十字路の向こうからシュウのスーフォアが近付いてくるのが見えた。 青信号を抜けて家の前に滑り込む。僕はシュウを見て固まってしまった。 「よう。時間大丈夫かな。」 「いや、大丈夫だと思うけど…何その格好。ていうか髪も。」 ヘルメットを外すと、シュウは黒髪を振った。彼の特徴でもある金メッシュはどこにもない。そしてそんな黒髪と同じ色のスーツに身を包み、深紅色のネクタイを結んだ彼はシートを開けて、白い紙袋を取り出した。 「ご両親への挨拶ってこうじゃねぇの。スーツに黒髪。」 「就活じゃん。しかも似合ってないし。」 「似合う似合わないの話じゃねぇよ。まずは誠意を着ないとな。」 「いつ染めたのそれ。」 「さっき。家帰って速攻黒染め。まぁ時間経ったら戻っちゃうけどさ。」 黒い柵を開けてシュウを招き入れる。玄関に入るとシュウは声を張り上げた。 「お、お邪魔します!」 母と同じでひどく緊張しているのだろう。彼の声は震えていた。 入ってすぐ右のリビングに入る。既に面識がある姉は慣れた様子でシュウに手を振る。だが姉の隣に座る母は借りてきた猫のように、ぎこちなく会釈をした。 ここは僕がしっかりしないといけないのだろう。慣れないスーツの背広に手を添えて、母に向けて言った。 「紹介するね。彼氏の、高山柊一。」 「ど、どうも。和哉さんとお付き合いさせていただいております、た、高山柊一と申します。あの、これ、つまらないものですが。」 そう言って紙袋をテーブルの上にそっと置く。中から取り出したのは真っ白な長方形の箱だった。 「か、亀屋本店の、びわゼリーです。皮と種を取り除いたびわを、丸ごと閉じ込めた、ゼリーです。甘くて柔らかくて、ち、千葉の名産品の一つです。よく冷やすとさらに美味しいゼリーです。」 入社1年目のセールスマンのようだった。すっと箱を押してから彼は辿々しく続ける。 「ぼ、僕は千葉出身なので。これを、ぜひ。お食べいただきたいと思いまして。」 「わーすごいじゃん。美味しそう。」 箱を手に取って表面を眺める姉だけが頼りだった。何だか僕の方まで緊張してしまうこの状況下で、唯一中立でいてくれる姉は小さな声で母に何かを伝えていた。 椅子を引いて立ち上がると、母は深々と頭を下げて言った。 「和哉の母の郁美です。」 たったそれだけの言葉を絞り出すのにだいぶ時間がかかった。シュウは改めて頭を深く下げる。これ以上の会話は望めるのだろうか。言いようのない不安に駆られていると、びわゼリーの箱を持つ姉がすぐに助け舟を出してくれた。 「パパが帰ってくるまで和哉の部屋で遊んだら?今日は晩御飯食べていくんでしょ?」 「は、はい、いただきます。」 「ねぇ、それでいいよね?ママ。」 「え、ええ。」 一向に不安は拭えなかった。
/93ページ

最初のコメントを投稿しよう!

93人が本棚に入れています
本棚に追加