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「おーい、見えてるー?」
スマホの向こうから伊往が手を振る。
「見えてるけど、ライト調整しなよ。顔が怖いよ」
「おめーもだよ、百代」
笑いながら灯りを移動する姿が映る。見覚えのあるランタンだ。
私は暗くなったベランダのデッキチェアであぐらをかく。大きすぎて、彼が持っていかなかった椅子だ。
「伊往、何のんでるの?」
「ブルマン」
「インスタント?」
「ちゃんと豆買って挽いたよ」
「へえ、そういうことはやるんだ」
こっちに居るときは料理ひとつしなかったくせに。
私は豆がどうのとか、そういう拘りはない。お気に入りのカップで飲めるなら、紙パックの珈琲で充分だ。伊往とお揃いのカップで飲めるなら――なんてことは、絶対言わないけど。
画面の向こうから「乾杯」と声をかけてくる彼は私の知らない金属のカップを持っている。
今夜は満月だ。
金曜だし、せっかくだから月見でもしようと言い出したのは彼のほう。
アルコール抜きならいいよと応じたのは私。
二人でオンライン飲み会なんて、今さらしんどい。珈琲くらいがちょうどいい。
伊往は今、100km離れた県外の実家にいる。
仕事がテレワーク主体になったから、こっちに居る必要もないという。
会おうと思えば会えない距離じゃない。けれど私たちはどちらからも行かない。
べつに喧嘩をしたとかじゃない。ただ、一緒に暮らしててもお互いの気持ちの何かが少しずつ、すこしずつ、苦い澱みたいに溜まっていくのは自覚してた。
だから。
例の感染予防で県境を越えての外出を自粛し始めた頃、なんとなく離れる言い訳ができてしまったのかもしれない。
夏が過ぎて人々の往来が戻っても、私たちは離れたまま。どうやって戻ればいいのか、何をきっかけにすればいいのか、わからずに宙ぶらりんのまま。
「あー、雲が出てきたなあ。そっちどうよ?」
「こっちも雲かかってる。月は見えるけど」
100km離れても月は同じように見えるのが、なんか悔しい。あんな高いところで雲の中に居て、涼しい顔で見下ろしているなんてね。私のことも伊往のことも見通してるくせに、月は何も言ってくれない。
「百代、なんか美味そうなの食ってんね」
「衣の屋の月餅」
「いいなあ。こっちにも送ってよ」
「自分で買いなさいよ、通販だってしてるんだから」
衣の屋は駅前の和菓子屋だ。二人でよく行ったっけ。今日仕事帰りに、久しぶりに寄ったら、伊往は蓮の餡が好きだったな、とか思い出してしまった。で、結局一人で食べるには多すぎる月餅を買ってしまった。
「てか珈琲に月餅って合う?」
「合うよ」
「甘い物ならなんでもいいんだろ」
「うるさいなあ」
わざと見せつけるようにカメラの前で月餅を食べてやる。蓮の餡だぞ。
伊往はオーバーなリアクションで悔しがってから、急に真面目な顔になった。
「なあ。俺たちそろそ……」
え? と聞き返そうとした時、画面が固まった。
心臓が変な音を立てる。
何? なにを言いかけたの?
立ち上がって意味もなく歩き回る。部屋のWi-Fiルーターを振り返ったりする。
私はなにか期待してる、それとも恐れてる?
大きな鳥が空を横切りながら鳴いた。
驚いて私はあやうくスマホを落としかけた。
「……てる? 聞こえてる? なんか変な声がしたぞ、ギャーとかグワーとか」
再び液晶の中の伊往がしゃべり始めて、私はやっと息をついた。
「あ、うん。画面固まってた。なんかね、鳥が飛んでったの」
「鳥? 雁とか?」
「さあ。アオサギでしょ」
「風情ないなあ。そこは嘘でも雁って言っとけよ、満月なんだから」
笑う伊往を見て、なんだかホッとしている自分が情けない。
「で……何の話?」
「ああ、ええっと」
頭をもさもさ掻いていた伊往が、いきなり顔アップになった。
「会おう!」
「は?」
「直接会って話そう。いや、会いたい!」
からだじゅうの血液が音を立てた。
月の光の色のソーダになって、私の中を駆け巡っている。
会いたい。
会いたい。
会いたい!
――ずっと欲しかった、必要だったのは、この言葉だ。
なんだ、こんな簡単な単語だったんだ。
わだかまっていた澱が解けて、溶けていく。
「モモ、おい百代聞いてる?」
「……聞いてるよ」
すっかり雲が消えた空を見上げる。
「月がきれい」
「え、なんて?」
液晶の中の戸惑った伊往に、私はもう涙を隠さず言った。
「来て、明日来て。イオが挽いた珈琲といっしょに。会いたいよ。じゃないと、月餅ぜんぶ一人で食べちゃうから!」
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