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気づくとN温泉行のバス停に立っていた。ところどころペンキが剥げ、ボルトには赤錆が浮いている木製のベンチが一台あった。青いペンキが塗られ、背もたれの部分にはよく知られた乳業会社の名前が白くペイントされている。まだあったのか。高校を卒業した男が町をでるとき、付き合っていた女と別れを惜しんだベンチだった。
「ねえ。電話しよ。土曜日の夜。絶対だよ」
「うん」
「わたし、連休には東京に遊びにいくから。ね、いいよね。アパートに泊めて」
「いいけど。でかい声だすなよ」
「ばか」
くすくす笑うと彼女は顔を寄せてきた。
「人に見られるよ」
「誰もいないよ。こんなに遅く」
確かに田舎の23時、バス停留所は無人だった。バスはまだ来ない。
最初は軽く、それから思い切り女の口を吸った。どこかでこれが最後になるかもしれない、と思った。いや、あのときは女を大切にするつもりだったのかもしれない。記憶などいい加減なものだ。
唇を離したとき、唾液が一筋糸をひいて、どうした加減か光を受けて銀色に小さく光った。
彼女の瞳も光っていた。
あんなに好きだった女の名前が出てこない。顔もおぼろになっている。それなのに、いま、男の右手には女の白い乳房の、指の下から押し上げてくるような張りが蘇っている。記憶はいい加減で、本能はしたたかだ。
よいしょっと男は腰をおろした。そして、今まで若く美しい記憶に浸っていた自分が発したよいしょという言葉の年寄り臭さと下品さに苦笑した。下品な中年になどなりたくなかった。どこで間違ったかなあ。
実家へはもう随分と帰っていない。連絡だけはとっているが。父も母も老いているだろう。
今帰れば迷惑がかかる。マスコミがもう行っているかもしれない。「死に場所かあ。死にたくないなあ、どこで間違ったかなあ」ともう一度低い声でつぶやいたとき、車のヘッドライトが薄暗いロータリーに侵入してきた。
男は慌てて顔を伏せた。なんだやっぱり俺は罪人なんだな、こんなふうに顔を隠すなんて。
コートの襟に顎を埋め上目遣いに様子を伺うと、白い軽トラが駅のロータリーに止まったところだった。降りてきたのは制服のスカートの下にジャージを穿いた女の子。高校生だな。部活の朝練だろうか。元気なことだ。
ともかくN温泉まで行こうーー男はそのままバスを待つことにした。東北育ちとはいえ、スーツに布帛のコートだ。しみとおるような寒さに腹に自然と力が入る。
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