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3
「はい、これどうぞ」
頭上で明るい声がして、目の前にハンカチ包みが差し出された。男はぎょっとして顔をあげた。
満面のえみを浮かべてハンカチ包みを差し出しているのは、高校時代に付き合っていた女だった。男はまばたきをひとつした。
「びっくりしますよね。ママ、いえ母がベンチのひとにこれ差し上げなさいって」
「これは?」
聞かなくてもわかっている。彼女特製の握り飯だ。中身は多分、この季節ならばっけ味噌。もうひとつには鮭、あとひとつに梅干しだ。懐かしい記憶がするすると呼び起こされてくる。
「はい。これ今日の分。朝練終わったら食べてね」
差し出されるハンカチの包みはいつもほんのりと温かかった。海苔は別にするのがサチコ、そう名前はサチコと言った。幸せな子で、幸子だ。
「こうすると海苔もぱりぱりで食べられるからいいでしょう。幸子流」
「いや、俺、しんなりしたやつが好きなんだけど」
「えええ、海苔はぱりぱりがいいんですよー」
よくあんなに他愛もないことで延々と話せたものだと思う。
「わたし、タカアキくんのことが好き。付き合ってください。お願いします」
どストレートな言葉にいささか面食らった。が、その率直さはとても好もしいものだった。
高校1年のときに付き合いはじめて、2年、3年。卒業後は進学先が別になって、そのまま自然消滅した。
いや、時折メールがきていたが、サークルとバイトに明け暮れていた俺からの返信は二回に一回、三回に一回になり、次第に間遠になっていった。
地元の大学と東京では話題も噛み合わない。流行りの映画も音楽も服も何もかも……。
「母って変わってるんですよ。困っている人をみると放っておけないっていうか。今も、おじさんが目に入ったら、『あのひとにあんたの朝ごはんのおにぎりあげなさい』って。おじさん困ってるんですか? 母は困ってるっていうんですけど。N温泉にいくんですか。あそこのお風呂、深くて立ち泳ぎができるんですよね。知ってますか。食べてください。気持ち悪かったら捨てちゃっていいですから」
幸子と同じ顔の女子高生が笑う。肩先までのおかっぱの髪がこどもっぽい。頬も赤くて田舎臭い。けれど人を疑うことを知らないような笑顔がまぶしい。男はまばゆい光を遮るように 目を細めた。
「君のお昼ごはんじゃないの?」
「これは朝ごはんです。昼は別に持ってますから」
肩にかけた大きな遠征バッグを揺すってみせた。
「あ。飲み物ないと食べられないですよね。ちょっと待っててください」
ベンチの真後ろにある自動販売機へいったらしい。ゴトン、とペットボトルが落ちた音がした。
「はい。お茶。この寒さじゃすぐに冷めちゃうから本当は水筒のほうがいいんですけど。さすがにそんなものはないんで。お茶、嫌いですか。でもおにぎりにはお茶ですよね」
軽トラがクラクションを鳴らした。
「やだ。ママが怒ってる。ね、気持ち悪かったら捨てちゃっていいですから。ハンカチも。どうせ100均で買ったやつなんで」
男の膝のうえにハンカチ包みとペットボトルのお茶がぐっと押し付けられた。
「そうだ。おじさん、東京のひとですか」
「うん」
思えば二十年以上も実家に戻っていない。東京のひと、かあ。なりたかったんだよな。
「わたしの言葉、なまっていませんか。ちゃんと東京の人と同じに聞こえますか」
「ああ」
だいぶイントネーションは怪しかったが、今いうことでもないだろう。
「よかったあ」
またクラクションがけたたましく鳴らされた。
「あ、電車来ちゃう。じゃあできるだけ食べてくださいね。ばっけ……ふきのとうのお味噌おいしいんです。母の手作りで、道の駅で売ってるの」
女子高生は男と、それから白い軽トラに向かって手を振って、軽やかに駅の階段を一段抜かしであがっていった。男は軽く手をあげて応えると、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
目をロータリーに向ける。
軽トラはまだ止まっている。
男は膝の上の包みをほどくと、別にラップされていた海苔をとりだして、かつてしていたように握り飯に巻きつけて一口かじった。ほんのりと温かく、塩がきいている。
もう一口、今度はがぶりとかじる。ペットボトルの茶を飲んだ。胃がじんわりと温まった。
猛然と食欲が蘇った。夢中で次から次へと食べた。食べ終わって茶をゆっくりと流し込んで、目をあげると、もう軽トラはいなかった。
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