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今日のワンピースは濃紺のシルク地のもので、シンプルでいて洗練されたデザインが気に入っていた。しかし購入してから今日まで、たった一度しか私はこのワンピースを着ていない。
雄太の前では着れなかった。
『お前なんでそんな地味なのばっか買うの?似たようなやつ他にも持ってんじゃん』
雄太にとっては何気ない言葉だったのかもしれない。しかしかねてから自分にまったく自信のない私にとって、その言葉はなけなしの自尊心を容易に打ち砕くものだった。そんな私がもう一度彼の前でこの服を着る勇気など到底起こるはずもなく、かといって捨ててしまうのは躊躇われた。そうして今日までこのワンピースは暗いクローゼットの奥地に追いやられ、ついぞ日の目を見ることはなかったのだ。そんな過去の遺物を発見したのは、苦しくも雄太と一緒に過ごしたアパートを出て行くための部屋の整理の最中だった。
「優香里さんって」
バーに向かうエレベーターを待っていると、礼央は隣に立つ私の姿をじっと見つめていた。
「なに?」
「センス良いですよね。靴とか、アクセサリーとか、そのワンピースとか。とてもよく似合っている」
最初は見え透いた世辞だと思った。
しかしどうも彼の目にはそういった類の虚偽の色は感じられなかった。
「地味とかよく言われるけどね」
「いや、地味どころかお洒落でしょ。余計なもののない美しさって感じ。単純に好みの感覚が近いってだけなのかもしれないけど、綺麗だと思うし、少なくとも俺は好きですよ。とても」
褒められ慣れていない私は何と返すべきか分からず、ただ困惑し、赤面してしまった。
俯く私の目の前に、都合よくエレベーターが到着する。どうやら一流ホテルのエレベーターは場の空気まで読めるらしい。
スカイバーはこのホテルの最上階にあり、私は礼央に手を引かれるまま進んでいった。靴擦れに気付いているのか、おそらく歩調を大分落としてくれている。こういう配慮は流石だ。
「せっかくだし、あそこの席なんてどうです?景色も良さそうですよ」
無邪気に笑う礼央は、私など分不相応であると一瞬で理解できるほど高級感の漂うバーの、これまた敷居の高いカップル席を選んだ。
「やっぱり職業柄こういうところも慣れてるの?」
あまりにも自然体だったから、私は思わずそんなことを尋ねていた。すぐ隣に腰掛けながら礼央は苦笑を浮かべて首を横に振る。
「いや、全然。今夜は特別なので」
「特別って?」
「あなたと一緒だから。ちゃんとエスコートしなくちゃって必死で」
他の男にこんなことを言われたら馬鹿にするなと思わず手が出てしまいそうなところだが、礼央が言うとどうにもすとんと腑に落ちてしまう。私はそれが悔しくて少しむくれた。
「嘘ばっかり。あーあ、私ばかり戸惑っていて、馬鹿みたい」
「戸惑ってるの?」
不満げに礼央の顔を見てみると、礼央は何故かその時嬉しそうな顔をしていた。
「なんでそう嬉しそうなわけ?」
眉を寄せて尋ねる私に礼央は満足げに微笑む。
「素の優香里さんが見れたから。それに、やっと優香里さんが俺のことを見てくれたから」
「え、それってどういう…」
言いかけたところで礼央は店の者に手を挙げた。
「さ、せっかくだから飲みましょう。優香里さんは何にします?」
先に人を呼んでしまっているのであまり待たせるわけにもいかず、私は少し慌てた。
「えっと…あなたは?」
「うーん、それじゃあ…俺はミモザでも」
「なら私もそれで」
オレンジ色の液を携えた華奢なグラスはすぐにボーイによって運ばれてきた。机の上に置かれる時、わずかに水面が揺れる。波紋は広がり、やがて静まった。
「さっきの話ですけど」
窓の外の海を眺めていた礼央が不意にそう切り出した。
「さっきの話?」
「忘れたいことがあると言っていたやつです」
「ああ、それがどうかした?」
礼央はいつのまにか視線を私の方に戻していた。
逃げられないようなまっすぐな眼差しで、私のことを捉えて離さない。
「忘れたいことって、なんですか?」
「…いやに直球ね」
「まわりくどく話すのって苦手なんです」
礼央は苦笑を浮かべながらも、手元の酒を手に取り、弄ぶようにクルクルとグラスを回す。
「俺が思うに、男でしょう?」
そんなにも自分は分かりやすいのだろうか。
黙り込む私を、礼央は逃してはくれない。
「もし優香里さんさえ良かったら、話してみてくれませんか?どんなことでもいいんです。断片的な話でも、何でも」
投げかけているようでいて、その言葉の内には決して断れない感じがあった。
「つまらない話よ?」
「それでもいい。聞かせてください」
「どうして」
「知りたいんです。あなたのこと」
「仕事だから?」
「それも勿論ありますけど…どちらかというと俺が知りたいから。俺自身のために」
礼央の言葉の意味がわからなかった。
「あなた自身の?それってどういう意味?」
礼央はそれ以上、なにも話さなかった。
「まずは優香里さんが先ですよ。俺のことはそれからです」
これ以上は何を言っても無駄のようで、私は仕方なく自身にあった出来事を彼に話すことにした。甘い甘いミモザの味に酔いながら。
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