sideA ep02 54階のシンデレラ②

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sideA ep02 54階のシンデレラ②

1 「ね、言ったでしょう?つまらない話だって」 自嘲気味にそうこぼして、私はグラスの底に残っていた美しい液体を飲み干した。 礼央の反応はなんというか、とてもフラットだった。過度な同情もしなければ、無駄に気をつかうこともない。ただ窓の外の夜景をじっと見据えて、怖い顔をして黙っていた。 「ねえ、何か言ってよ。そうじゃないと私、なんだかすごく…」 惨めじゃない。 最後まで言えず、グッと唇を噛み締める。 礼央は私にすっと視線を移し、空になったグラスを指さした。 「次は何飲みます?まだ話、終わってないんでしょ?」 「え?」 「スッキリしてない顔してる。こんな話、酒でも入れないと話せないでしょ?だから次、要るのかなって」 私は今どんな顔をしているというのだろう。 「…なんでそう、わかるかなぁ」 「こっちも接客業のプロなもので」 「なるほど」と思わず返してしまうと礼央は「いや、冗談ですよ」と言って笑った。 少しだけ空気が和らいだような気がしてほっとする。礼央は追加でジントニックを頼み、私もそれに倣った。 「ねえ、もう一つだけあなたに注文してもいい?」 話も中断しグラスも空になった今、私と礼央の間には中途半端な空白があった。 その空白を埋めるかのように私は礼央を見た。 「なんでしょう?なんなりと」 「敬語、いやなの」 「へ?敬語?」 礼央は少し意外そうな反応をした。 「なんかこう、見えない薄板で隔てられているような感じがする。もしかしたら、敬語だからとかそういう問題じゃないのかもしれないけど。あなたと話していると、あなた自身が意図して距離を置こうとしているような、そんな気がするの。それが今は…嫌」 自分でもうまく話せているとは思えなかった。おそらく礼央自身は私よりももっと困惑していることだろう。変な空気にしてしまった気がして、私は言葉を間違えたんだと後悔した。 「えっと、ごめん。わけわかんないこと言って。でもほら、やっぱり他人行儀だし、だから…」 慌てて弁明しようと顔を上げると、礼央の表情は困惑というより拗ねた少年のように見えた。その表情に、私はどこか既視感めいたものを感じた。 「…敬語使えって言ってたくせに」 「え?」 礼央はごにょごにょと何かを言っていたが、周囲の音に言葉は埋もれ、私の耳には届かなかった。 「なんでもないです。でもそれなら、優香里さんも俺のこと名前で呼んでよ。あなたじゃなくて、礼央って呼んで」 不意に、真剣な目を向けられた。 私は自分の胸の高鳴りを感じ、動揺のあまり視線を逸らす。 「いきなり名前呼び捨てはちょっと」 「じゃあ俺も敬語やめません」 「わかった。とりあえず努力はします。だから今から敬語は禁止。いい?」 礼央は満足そうに笑みを浮かべる。 「もちろん。これでますます本音トークしやすくなったね、優香里さん」 まったくこの男はどこまで見越しているのだろうか。私は呆れたように「そうね」と返し、そうこうしている間にも、目の前にはジントニックが二つ並べられた。 私はジントニックを一口だけ口に含んだ。 独特の苦味が広がっていく。 グラスを元の位置に置き、遠くの海を眺めて、私は続きを話し始めた。 真新しい氷の冷たさを、その手に感じながら。 *** 別れを切り出されたのは喫茶店だった。 不在がちだった雄太が、ある日「デートをしよう」と言ってきた。私は愚かにも、その言葉にとても喜んだ。いつも通りに目が覚めて、いつも通りにデートをし、いつも通りに帰宅する、一時はちょっと気が立っていただけのことで、私と雄太は大丈夫なのだ。そう思っていた。 しかし帰宅する前に、事件は起こった。 「別れてほしい」 最初は何を言っているのか分からなかった。 音は耳に届いているのに、その意味が捉えられない。私は焦り、狼狽し、必死だった。 「…そんな笑えない冗談やめてよ」 そう返すのが精一杯で、私の顔は引きつっていたことだろう。 「冗談じゃない」 「嘘でしょ?」 「だから違うって…」 「じゃあなんで…!!」 思わず机を叩き、大声を出していた。 隣の席のカップルが驚いたようにこちらを見て、一度は視線を逸らしながらも、チラチラと好奇の目を向けてくる。 目の前の雄太はというと、一度も私と目線を合わせることはなく、淡々と話を進めていった。まとめるとこうだ。 『俺とお前の好きって感情にはいつの間にか温度差が生まれた。俺はお前と同じだけの好きって感情をお前にもう抱くことはできない。だから別れてほしい』 私はふるふると震える拳を握りしめ、なんとか気持ちを抑えようとした。 「…いいじゃない違っていたって。私、同じなんて求めてないもの。あなたさえいてくれれば私はそれでいいの。満足なのよ私」 雄太は目を伏せたまま答えない。 私は沈黙が怖くて、焦って言葉を探した。 手当たり次第に並べ立てたと言ってもいい。 「ねえ、お願い考え直して。悪いところは全部直すし、変えて欲しいところがあるならいくらでも変えてみせるから」 最後はもう懇願だった。 雄太は苛立たしげに目を閉じていた。 「優香里は悪くないよ。良い彼女だとも思う。俺にはもったいないくらい、良い彼女だよ」 「だったら…!」 「だけどもう、無理なんだ」 私の言葉を雄太の声が遮った。 ため息のような、激しい怒りのような、そういう感情を内包した冷たい声だった。 「…そういうの、もう疲れたんだ」 しばらく沈黙が流れた。 気まずい、重くのしかかるような空気。 雄太は耐えかねたのか、お金を机の上に置いて席を立つ。 「今借りてるアパート、俺出てくから。あとは優香里の好きにしていいよ。契約解除に金がいるならそれは俺が出すし」 そう言い残し、彼は最後に私に一瞥をくれた。 今も脳裏に焼き付いて離れない、冷たく氷のような無の視線。 「じゃあな」 席を立ち、雑踏の中に消えていく彼の背中を私は呆然と見送ることしか出来ないでいた。 しばらくは死んだように眠っていたと思う。 何もする気が起きなくて、仕事以外の時間はずっと眠っていた。全てがどうでもよくなっていた。明日世界が滅びようとも構わないくらいには、全部がもう無価値に思えた。 ある日仕事から帰ってくると、玄関ポストには雄太が持っていたはずの鍵が入っていて、急いで家を確認すると、あったはずの雄太の私物が綺麗さっぱり無くなっていた。 私はなにもない部屋を見て、ああ本当に終わったんだと思い知った。 リビングには手紙が置いてあって、自分の私物は引き取ったこと、残っているものは処分してしまって構わないこと等が業務的に記されていた。部屋を見渡すと、見慣れたはずの景色はがらんとした印象に変わっていた。その中にもまだいくらか彼の私物は残されていて、彼の誕生日に贈ったキーケースや、同棲を始めた時に一緒に買ったマグカップが目についた。その反面、同じ誕生日にあげたプレゼントでも、彼が好きだったバンドのCDや彼が所望した機材関係の諸々といった「使えるもの」はちゃっかりなくなっていた。 その線引きを目の当たりにし、結局のところ私は彼にとって都合のいい女でしかなかったのだということを痛感させられた。 6年、結婚まで考えていた。 それがあっけなく、消えてしまった。 私は悲しいのか怒っているのか自分でもわからなくなって、近くにあったクッションを思い切り地面に投げつけた。置いてけぼりを食らったキーケースもやっぱり地面に投げつけた。 それでも気持ちは収まらなくて、私は床に座り込み、獣のようにうめいて泣いた。 本当に悲しい時というのは喉が詰まって思ったように声が出ない。しゃくりあげる呼吸音だけが空っぽの部屋に虚しく響いた。 気分転換が必要だった。 たとえば新しい恋をするにしろ、雄太との日々を忘れるにしろ、何かをするにはそれなりにエネルギーが必要で、今の私にはそれが圧倒的に足りていない。 「外に出よう」 まずは声に出してみた。そしてゆっくりと体を起こし、ベッドからそろりと地面に降りる。 いつまでも嘆いていても仕方ない。 自分にそう言い聞かせ、冷たいフローリングの床を踏みしめる。 こういう時に、腹を割って話せる友人の一人でもいれば違うのだろうが、生憎私にはそういう相手は思いつかない。この数年は特に、友人との付き合いよりも雄太との時間を優先させてきた。その代償は思った以上に大きい。 一人で考えれば考えるほど最悪な気分になっていく。ドツボにハマる前に私は身支度を整えて外に出た。 玄関扉を開けると涼やかな風が吹き抜けた。 きっと、ここにいてはいけない。 季節の変わる匂いに、重かった足が少しだけ軽くなったような気がする。 (そうだ、引っ越しをしよう) 突然そう思った。 新しい土地で新しい生活を始めれば、今抱えている感情も徐々に忘れていけるはずだ。そうしていつか、どこかでばったり再会した時、ああ久しぶりと気軽に話せるようになるだろう。 時が解決してくれることもある。 そして物事には勢いというものが大事なのだ。 私はその日、家の近くの不動産屋をいくつかまわってみることにした。 物件を見るのは思っていたより楽しかった。 新しい街、新しい家。 何もないまっさらなところに自分が身を置くということ。想像するだけでもワクワクした。 (なんだ、こんなことでも気持ちなんて変えられるんだ) 私は久しぶりに心が弾むような感覚というのを思い出していた。 午前中に家を出て、そのまま休憩なしに動き回っていたからか、さすがに少し疲れが出てきた。私は近くにある気に入りの喫茶店に足を運ぶことにした。そこは大学時代からよく通っていたとっておきの場所で、雄太と付き合いだしてからも何度か二人で訪れていた。最近は忙しくてあまり来れなかったから、なんだかとても久しぶりな気持ちがして、懐かしい実家に帰ってきたような心地がした。 木製の重い扉を開けて、店内を見回す。 窓際に空席を見つけ、私はそこに落ち着いた。 珈琲とチーズケーキのセットを注文し、窓の外をぼんやりと眺める。 (雄太は…いつもメニュー悩んでたっけ) チーズケーキとチョコケーキ。 どちらにしようか悶々と悩んで、結局私にひと口交換の取引を申し出るのだ。 変なところで優柔不断で、そういうところも大好きだった。 (私は、どうするのが正解だったんだろう) どうしたら、雄太と一緒に笑っていられる、そんな未来に辿り着けたというのだろう。 (もう一度、声が聞きたいな) 会いたい、そう思った時だった。 「ねえ、雄太は何にする?」 俯いていた顔をあげると、前の席から甘えるような声が聞こえた。 「んーどうしようかな。ミサはもう決めたの?」 全身が凍りつき、一瞬呼吸や心臓の鼓動すらも止まったような気がした。 夢ではない。 後ろ姿ではあるけれど、目の前の席に間違いなく、雄太がいる。 知らない女と一緒に、楽しそうに。 「チョコのやつと、ミルクレープで迷ってるんだよね」 「じゃあ俺がチョコのやつ頼むから半分こする?」 「え、いいの?やさしいじゃん」 雄太はミルクレープがあまり好きではない。生クリームというものがそんなに好きではないのだと昔私に話していた。それなのに、今は私の代わりにケーキをシェアする人がいる。それも、苦手なケーキを我慢してまで共有したいと思うような可愛いらしい女の子。 やめてよと思わず叫んでしまいそうだった。 どうしてわざわざこんなところで鉢合わせしなければならないのだろう。 まだ心の準備も心の整理も、何一つ出来ていないというのに。 「雄太、よくこんな素敵なお店知ってたね」 「前に友達に教えてもらったんだ」 友達…? 教えたのは私だ。 私がここに立ち寄りたいと言って、初めて雄太を連れてきた時、雄太は「初めて来たけど、すごく良い店だ」と言っていた。そこに嘘はなかったはずだ。 そりゃ元カノに教わったなんて言いたくはないだろうけど、それにしたって…。 「ミサが気に入ると思ったんだよね。だから絶対いつか連れてきてあげようって考えてた」 得意げに言う雄太の声に嫌悪をおぼえた。 どうしてそんな風に言えるのだろう。 私との思い出を、こうもあっさりと次の女を喜ばせるためのネタに変えてしまうなんて。 ひどい気分だった。 だけどそれで終わってはくれなかった。 「そういえばさ、雄太あの子のことは結局どうしたの?」 雄太の前でケーキを食べながら、その可愛らしい女の子は雄太にきいた。 「あの子?」 「ほら、あの、メンヘラ彼女ちゃん」 それが自分のことだというのはすぐに分かった。雄太は私のことをそう思っていたのかと思うと傷ついた。 「ああー。別れた別れた。やっとだよ。まじ疲れた。最後まで重いのなんのって」 片手をひらひらさせながら雄太は笑ってそう言った。私はそれを黙って聞いていた。 「悪いとこあるなら直すからーとか言って」 「うわ、必死。ウケるね」 「だろ?地味な上に重いとかヤバいよな」 「なんでそんな女と付き合ってたの?」 腹は立ったが、それは私も知りたかった。 そんなふうに思っていたなら、どうして私とあんなにも長いこと付き合い続けていたのか。 「強いて言えば、金と体?」 「うわークズじゃん」 「ヤリたいって言ったらいくらでもヤらせてくれるし。自分が趣味とかないからか、その分俺に貢いでくれるわけ。そんなん最高じゃん」 耳を塞いでしまいたかった。 泣きたいのに泣くことすら許されず、醒めない悪夢を見ているかのようだった。 「最初は可愛かったんだよあいつも。そういやミサのバンドのファンだったな。限定盤の特典持ってたし」 「えー、本当?」 聞きたくなかったし、知りたくもなかった。 雄太を奪った女の正体。 私は目が合わないように気をつけながら、こっそりと視線だけ目の前の席に移した。 彼と向き合うようにして座っているのがきっと、大好きなバンドstellaのボーカル、misaなのだろう。小柄で、ボブカットの良く似合う、私とは真逆の可愛らしい人だった。 「私も罪な女だねー。ファンの恋人寝とっちゃうとか」 「まあそれは俺から望んだことだし?」 「言えてる。激しいんだもんなー雄太。声出なくなったらどうしてくれるんだか」 「なに、俺ってそんなに良いの?」 「ばーか」 ここに話題の張本人がいることなどつゆ知らず、彼らはひとしきり盛り上がると、そのまま店の出口に向かった。 その後に彼女が発した言葉は多分死んでも忘れない。 「でもさ、なんか可哀想よね。その元カノちゃん。同情するわー」 雄太に肩を抱かれながら、優越感に浸っているように見えた彼女は、その美しい顔を歪めるように笑った。 「ぜーんぶ、無駄だったわけじゃん。雄太のために費やしたものも、うちのバンドに費やしたものも。まあそのお金があったから、私たちもホテルとか気にせず行けたわけだけど?」 「俺が幸せなら幸せらしいからいいんじゃん?」 「あっはは、サイテー」 楽しそうに、二人は街に消えて行った。
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