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sideA ep.01 54階のシンデレラ①
1
私は今夜、かつて愛した男のために積み重ねてきた時間と金で、人生で初めて"男"を買った。
それが吉と出るか凶と出るかは分からない。
だけど、それでも構わなかった。
私はただ、知らない誰かにどこかへ連れ去ってもらいたかった。
本当に、それだけだったのだ。
***
それは27歳という年の、冬のことだった。
雪こそ降っていないものの、外気は刺すように冷たく、『5403』と書かれたカードキーを悴んだ右手に握りしめ、私は何かから逃れるように足早にエレベーターに乗りこんだ。ぐんぐんと地上から離れていく箱の壁面は一面がガラス張りになっていて、一瞬にして日常から切り離されていくような感覚に、ほんの少し、救われたような気持ちになる。気圧変化によって生じる耳の痛みを感知した頃には、もう目的の54階に着いていた。
恭しくエレベーターの扉が開くと、そこには落ち着いた雰囲気のホールがあった。目の前には控えめに自己を主張する花と小さな絵画が飾られている。私はそれを美しいと思い意識を留めたが、すれ違う他の客は皆気付く素振りもなく通り過ぎていくばかりだった。
(なんだか、私みたいね)
それはもちろん美しいからではない。
誰からも見向きもされない存在感のなさ、そのものに対してである。
そう思ったら忘れていたはずの涙が思い出したように込み上げてきて、私は慌てて自分の部屋へ向かって歩を早めた。
廊下の案内板を頼りになんとか部屋にたどり着いた時、ようやく大きく呼吸ができた。
(ああ、勢いだけで来てしまった…)
今までの人生の中で一番高層階の、さらには一番高級なホテル。慣れない環境に居心地の悪い緊張感を抱きながら部屋の奥へと進む。普段は履かないヒールの音がコツコツと無機質に鳴り響き、それはまるで今の自分を責め立て非難する声のように聞こえた。
(だめだ、気持ちで負けてはいけない。何のために高い金払ってここまで来たと思ってるの)
自分自身を奮い立たせるように、わざと心の中で舌打ちをして、私は閉じられたカーテンに手をかけた。その滑らかな布地を思い切り左右に引いた時、開けた光景に思わずハッと息を呑む。今までの問答が嘘のようにスッとなりを潜め、代わりに私は深い感嘆の吐息をもらした。
(こんなにも、私のいた場所は美しかったんだ)
眼下に広がる光景は夜景というにはまだ早く、空は橙色に染まっている。まだ帰りたくないと駄々をこねる子供のように、沈みかけた夕日は名残惜しそうに地上の街を染めていた。
行き交う車は沢山の光の線となり、どこまでも果てなく伸びていく。
「綺麗…」
こんな風に心が震えるような体験を最後にしたのは一体いつだっただろう。思えば、もう何年もの間、私は感動なんてしてこなかったような気がする。
私の心はいつの間にこんなにカラカラに乾涸びてしまったのだろう。
そしていつから、私はこんなにもつまらない女になってしまったというのだろう。
(ああ、もう…!)
沸き上がってくるこの感情は一体何なのか。
全てから目を背けてしまいたい衝動に駆られ、私は思い切りベッドに倒れ込んだ。綺麗に整えられていたベッドはギシリと揺れ、私のあらゆる感情を受け止めた反動で見事に歪む。
寝返りをうって天井を見上げた。
白い天井を外からの光がゆらゆらと揺蕩う。
(…ここに来ることが何かのお祝いだったなら、一体どれだけ幸せだっただろう)
深く息を吐きながら、視界を遮るように私は自分の腕で目を塞いだ。慣れないヒールを履いたから両足の踵はどちらも靴擦れで赤くすりむけている。ジンジンと痛む足のせいで、久しぶりに袖を通したワンピースも、普段はしないような精一杯の化粧も、全てが忽ち虚しく馬鹿馬鹿しいものに思えてしまう。そんなことで変わった気になっていた自分という女ですらもー。
苛立ちや後悔というものは腹の底にそろりそろりと溜まっていく、そういう類の感情なのだということを私はこの時経験として初めて知った。あとはもう、静かにやり過ごすしかなかった。
(まだ時間はあるし、大丈夫)
私はこの日、ずっと貯めていたお金を躊躇いなく使ってやるぞという意気込みだった。
自棄になっていたという方が、あるいは正しいのかもしれない。間違っているような気もしたが、そうでもしないと、とてもじゃないが耐えられそうになかった。
それほどまでに私の心はすり減り、随分と切迫していたようだった。
***
時刻は午後八時。
心地よく沈むベッドに身を任せ、大きな窓越しに見える空をぼうっと眺めていた。
『そうやって空見上げてる時の優香里の横顔、なんかすげー好き』
空を見上げるのが癖の私に、雄太はいつもそう言ってくれた。
私は嬉しいのと気恥ずかしいのとで上手く言葉を返せずに、いつもはぐらかす様に曖昧に笑い返していた。
『でも、優香里は危なっかしいからな。やっぱり俺が手引いてやんないとダメだな』
雄太の手の感触も、その熱も、今でもそのすべては鮮明に思い起こせるし、愛おしい。
まだ過去形ではなく現在進行形でしか言い表せないくらいには、私は彼を愛していた。
だけど、もう私達は終わったのだ。
あの日の雄太の目の冷たさが、なによりもそれを物語っていた。
「別れてほしい」
人のまばらな夕方の喫茶店。
飲みかけの珈琲をソーサーに置いて、彼はそう言った。溜め息混じりに。
「俺は優香里と同じだけの気持ちを持てない。一方的な関係はお互いのためにも良くない。優香里は何も悪くないんだ。良い彼女だとも思う。それこそ、俺にはもったいないくらい」
「だったら…!」
「だけどもう、無理なんだ」
夕飯前の人の少ない時間帯とはいえ、隣のテーブルのカップルが興味本位に聞き耳を立てているのが気配でわかった。それでも私は人目を気にすることなく、追い縋るように言葉を並べた。彼を失うまいと、必死だった。しかしその中のどれ一つ、雄太の心を動かせるものなど存在しなかった。今思えばそれも当然のことだった。
「別れてくれ」
瀕死になった恋にどれだけ延命措置を施したところで、それは最早なんの役にも立たない。
雄太は気まずさに耐えかねたのか、自分の珈琲代をテーブルに置いて店を出て行った。
私はすっかり打ちのめされてしまって、しばらくその場から動くことができなかった。
それだけで済めばまだよかったのだ。
よかったのに…。
部屋の呼び鈴が鳴り響き、来客を知らせる。
時間も場所も自分から指定していたはずが過去に気を取られるあまり、すっかり忘れてしまっていた。
「こんばんは」
慌てて開けた扉の向こうには、濃紺のジャケットを着た男が立っていた。歳は二十代前半といったところだろうか、穏やかな雰囲気が春の木漏れ日を彷彿とさせる、どこか儚げで物静かな印象の男だった。
「はじめまして、礼央です。本日はご指名ありがとうございます。優香里さん、ですよね?」
感じのいい笑みを浮かべて挨拶をくれた彼に対し、私の対応はひどく不躾なものだったように思う。それでも彼は嫌な顔一つせず、やはり静かに微笑んでいた。
「中に入っても?」
「…どうぞ」
中へ促すと彼は「ありがとうございます」と礼を言い、それから「お邪魔します」と律儀に挨拶をしてから部屋に入った。柔らかなダークブラウンの髪が揺れると、ほのかに花の香りがした。ライラックだろうか。
「素敵なお部屋ですね。良い景色だ」
礼央は窓辺の方へゆっくりと歩み、そっと窓ガラスに触れた。すっかり暗くなった部屋に彼の白い肌が艶かしく浮かぶ。
「緊張、してます?」
静かな空間の中、礼央の声はやけに響いた。
窓辺に立ったままこちらを振り返り、礼央は薄く笑みを浮かべる。その表情のかもし出す妖艶さに思わずゴクリと唾を飲んだ。
真っ直ぐに私を見据える瞳には、抗いたくなるような、それでいて全てを委ねたくなるような、不思議な力がある。
私は目眩のするような心持ちで、しかしそれをひた隠すように、彼の目をじっと見つめ、精一杯の虚勢を張った。
「どうかな、あなた次第じゃない?」
「はは、それもそうですね」
礼央は私の答えを面白そうに聞いていた。
それからゆっくりとした動作で窓辺から離れると、そのまま輝く夜景に背を向けて、こちらへ近づいてくる。向かい合うように立つと思ったよりも背が高く、私は不意に男を感じた。
「予約の時、今日はフリープランと伺ってましたが、何かやりたいことはありますか?」
「…わからないの」
私は正直に今の気持ちを答えた。
単純にこういう利用が初めてだからというのもあるが、何よりも本当に自分のやりたいこと自体が分からなかった。雄太のために生きていた私にとって、彼を失った今、自分という存在は限りなく曖昧なものになっていた。自分のために何かを欲するという行為自体が不自然で卑しく、間違っていることに思えてならなかった。
彼は前者として私の言葉を捉えたらしく、「そうですね」と言いながら視線を宙に泳がせる。
「そんなに難しく考えることはないと思いますよ。うん、色々な人がいます。たとえば、一緒に買い物したいとか、お洒落なレストランで食事したいとか、彼氏がしてくれないようなロマンチックなデートがしたいとか、本当に色々」
「それじゃ…」
私は言いかけたまま、つい言葉を止めてしまった。礼央はそのまましばらく私の言葉の続きを待っていたが、言い淀む私の顔を覗き込み、その続きを促してくる。
「それじゃ、何です?」
彼の指が優しく私の髪に触れる。
わずかに耳をかすめたその手はとても冷たかったけれど、触れられた箇所は反対に、ジンと熱を帯びたように感じられた。
ゾワリとして、思わず体がビクンと強ばる。
その一刹那、何故かふと、かつての恋人の姿が脳裏をよぎった。
(これが雄太だったら良かったのに…)
体から急速に熱が失われていくような感覚だった。
頭ではわかっている。雄太はこんな風に繊細に私を扱ってはくれない。付き合っていた頃でさえ、一度足りともそんな扱いを受けたことはなかったのだから。だけどどうしても消したいはずの顔を思い浮かべてしまう自分がいる。
後悔をするものの、もうすでに手遅れだった。刃物で斬りつけられたように胸のあたりがズクリと痛み、そのせいなのか、私の意思とは関係なく、涙が頬を伝い落ちていく。
礼央は私が泣いていると知り、頬に触れていた手を咄嗟に離そうとした。しかし、私は離すまいと彼の手に自分の手を重ねてそれを制する。
「お願い、離さないで」
自分でもなんでそんな言葉が口をついて出たのか、理由は分からなかった。
「優香里さん?」
困惑する彼の手をキュッと握りしめる。
「やりたい事は特にないの。でもひとつだけお願いがある」
私はもう何でも良いような気がしていた。
ただ、壊れてしまいそうなほどの苦しさを彼にぶつけてしまいたいという衝動に駆られていた。ただの通りすがりの人間だからこそ、ぶつけてしまえる感情もある。
「ほんの一瞬でもいい。それでもいいから…忘れてしまいたいことがある。あなたには…それが出来る?」
礼央はすぐには答えなかった。
「本当になんでもいいの。ただ、今だけは忘れさせてほしい。嫌な過去も、時間も、何もかも全部。私からの要求は…それだけよ」
やはり礼央は、沈黙していた。
彼はしばらく難しい顔で考えて、それから困ったような笑みを浮かべた。
「忘れさせることができるかは、正直自信がないけれど…」
礼央の目が、じっと私を映していた。
泣いて、取り乱して、惨めな私がそこにいた。
それでも礼央が私に向ける視線は憐れみでも同情でもなく、誠意に満ちた愛情だった。
「優香里さんの話を聞いて、苦しいとかムカつくとか、そういうのを一緒に共有することならできるかな。あとは…」
礼央は途中で言葉を止めると、そのまま繊細なガラス細工をそっと手のひらで包み込むように優しく私をその腕に抱く。
「こうして、抱きしめてあげることも」
初めて会う人間だというのに、私の心は不思議と凪いで、嫌な気持ちは少しもしなかった。
そればかりか、安堵すら感じていた。
「ひとまず今夜は好きなだけ思ってることを言ってみてください。わがままも。俺に対して遠慮はしないで。好きなだけ甘えてしまえばいいんです。そうしているうちに、もしかしたらその忘れたいものってやつも、すっかり忘れているかもしれない。…それじゃ、ダメですか?」
まるで催眠にでもかかったようだ。
彼の声が、彼の言葉が、私の中にゆるゆると入り込んでは、こんがらがった感情を紐解いていく。ふるふると首を横に振る私を見て、礼央は緊張を解いたようにふっと微笑み、顔を上げた私の目に残る涙をそっと拭ってくれた。
私は礼央の胸にもたれ掛かるようにして身を預け、ようやく自分の気持ちに気がついた。
(私はずっと寄りかかるものが欲しかっただけなのかもしれない)
自分が思っているより、強がることにも頑張ることにも疲弊しきってしまっていた。
もうとっくに限界だったのだ。
「ねえ、優香里さん。あなたはきっと優しい人です。でも優しすぎるから、他人ではなく自分自身を攻撃して、ボロボロになってしまう。だから今日くらいは目一杯甘えてください。がんばってる自分にご褒美って事で」
礼央の声は私の中の奥底にまで深く染み込み、ばっくりと割れた心を柔らかなベールで包み込んでくれる。
それが嬉しくもあり、同時に怖くもあった。
「…優しいとか、頑張ってるとか、何も知らないくせに」
動揺する心を必死に抑えてそれだけ言うと、礼央は得意げな顔をして笑ってみせた。
「俺、昔っからそういうのはよく当てるんですよ?人を見る目には自信あるんですから」
「…変な人」
私が釣られて少し笑うと、礼央はすごく嬉しそうな顔をした。
「そうそう、そういえばここのホテル来る時に調べてみたんですけど、最上階にあるバーが評判みたいなんですよ。海をのぞむ夜景がそれはもう綺麗なんですって。せっかくだから、行ってみませんか?」
突然彼がそんなことを言った。
「ホテルのバーでデートごっこ?」
「ごっこじゃなくて、デートです」
キリッとした顔をして大真面目にそんなことを言うものだから、私は無性に可笑しくなってクスクスとさらに笑った。
「スカイバーでデートだなんて、なんだかそれって、すごくベタね」
「いいじゃないですか、ベタでも。それにちょっと憧れなんですよ」
「憧れ?」
彼は私をその腕に抱きながら、年相応の無邪気な顔をして笑った。
「だってほら、なんかこう、大人の男って感じがして、かっこいいじゃないですか」
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