金曜日の歌

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 バリィはパソコンの下に表示された時刻を見た。金曜日の午後6時30分。彼にも、もちろん本名はある。しかし、彼が生きるオンラインゲームの世界に彼の本名を知っている者はいない。誰も認識していない本名に何の意味もない。バリィ。むしろそれが彼の世界での本名なのだ。  毎日、薄暗い部屋の中で朝から晩までパソコンに向かい合う。それが、バリィの生活の全てだ。もっとも、彼には朝も晩も、そもそも時間という概念が希薄である。  プロゲーマー。好きな事を仕事にする。その典型のような仕事をして、幸せな人生だと思っていた。だが、好きだった事も仕事になると徐々に変わっていく。変えたものの正体は何か。これをプレッシャーなんて呼ぶのだろうか。  バリィはもはやそんな事は考えなくなっていた。考えてもどうしようもない事だった。これが彼の仕事で、もはやこれ以外の事などできない。一度始めてしまったら、二度と引き返せはしない。  バリィは時間を確認するとゲーミングチェアーを立った。一週間ぶりにパソコンの電源を落とす。画面がゆっくりと暗くなり、休息に入って行く。薄暗い部屋からパソコンの光が失われさらに暗くなった。  バリィは靴を履くと家の外に出た。一週間ぶりにバリィは本名に戻る。バリィが完全に日の落ちた住宅街を歩いていく。そんなに遠くない駅前へ行くために十分な時間を取った。ほとんど動かない体では歩くのも時間がかかるのだ。7時に駅前に着くようにバリィはゆっくりと歩を進める。
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