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バイクが何台かおかれているかどのところを右に入る。車のとおれない道があり、3、4けんほどさきにすすむと、むすめのいう「こわいかおのねこ」がいる、コンクリートづくりの家の1階に、これも、半のらなのかかわれているのかよくわからないねこたちが何びきかいる。車1台とめられる車庫のようなところのすみに段ボールでかんたんにつくられたねこの家やちいさなおちゃわんにもられた水やキャットフードなどがおかれている。きょうは1匹もいないようすで、さきにいって見てきてといっているむすめは、
「もういこう」
といってうながしている。左に家もたたずにさらちになったままの草のしげみにもねこがいたりするけど、きょうはいない。すると、またもや京急の高架の下に入る。左にまがれば、高架のなかをとおっていくことになる。しばらくいくと、またよこの道にでて、左にまがる。きみょうなマンションのエントランスやいっぷうかわったいろをしたたてものの医院なんかを見てあるく。むすめはストライダーにのっている。つぎに右におれる道に入れば、あるくくらいのときにしかわからない高低差もあり、へこんでいて水たまりになっているところもあり、
「シュー、していい」
とむすめはきいてくる。
「いいよ」
というと、
「やったあ」
という。シュー、とは、ストライダーのフレームに両足をかえるのようにのせ、坂道などをすべるように走らせていくことである。むすめは助走をつけてうまく足をのせ、ツー、とすすませていく。くぼみになっている水たまりのところですこしの抵抗がかかるため、なにもしなくてもブレーキがかかり水たまりをすぎたころにはしぜんととまり、水たまりに足をつけなくてもいいので、
「セーフ」
といって、ぢめんに足をつけている。工事現場のところを左にいけば、ほぼちびのところから、まっすぐにこられる道となる。警備員に誘導されて、ちっちゃな声で、
「ありがとうございます」
と、右におれ、この道は京急の高架下と旧東海道とのあいだにはさまれ、ほぼ平行している道でもある。もうそろそろとまっすぐにたどっていけば、まつこ、のいる家である。
「さかみち、つらい」
といっている、も、そんなつよい坂道ではないものの、かえりまたこの道をつかえば、足をなにもうごかさなくても、シュー、できるそのくらいの坂である。
「まつこ、いるかな」
「さきにまた見てきて」
といっていると、反対側のたかいところから、なにか視線をかんじて、見てみると、いままで見たことのないちゃいろいねこがおおきなひとみでもってこちらを見つめている。
「いる」
「どこ」
「ほら、そこに」
「あ」
お稲荷さんのうらのところから、見つめているねこをむすめは見つめている。
「やさしい」
「やさしいかおしてるね」
おとうさんはそう見えないので、
「そうか」
という。
「やさしいよ、ほら」
といって、ゆびさして、見ている。ねこもむすめを見つめているらしい。
「コーヒー、ちゃん、だね」
といっている。おそらくちゃいろとしろのぶちもようなので、ミルクをまぜたコーヒーなのであろう、もう名まえをつけている。
「コーヒー、ちゃん」
「だって、ちゃいろ、だから」
といっている。このねこもふたりの会話をきいているのかじっとしてうごかない。
「かわいいね」
ともいっている。
それとは、反対側のマンションのつくりのようなたてものの1階の門扉のところにはねこようのではいりぐちがあって、透明でなかをのぞくことができる。
そのなかに、だいたいいつもまつこはいる。そしてほぼねている。
「まつこ、いるよ」
というと、
「いる」
と、なかをむすめがのぞくと、
「いる」
といっている。おしりをむけてうごかない。
「ねてるね」
「ねてる」
ねこのおうちに入っていてねむっている。まつこ、というのはいまでもそうであるのかもしれないが、むかしのシャムねこをでかくしたようなねこで、かおだちは気品あるものの、ふてぶてしくて、ものおじせずに、おきているときはのっそのっそとゆったりとあるいている。毛なみもひじょうによろしくて、どこかのきいたことのない国の貫禄ある王妃さまのような雰囲気を見せている、そんなねこである。そして、ねている。ねこのおうちのなかに、天蓋でもあるかのような、ただよいもあり、とにかくねむっていて、でかいねこである。
「ねむってるから、いこうか」
「うん」
すると、すぐそばの公園のはしっこの樹のうえているところにも、いつもいるくろの、ねこがいる。
「くろいねこ」
「くろいねこいるね」
と、むすめはうれしそうにいっている。いつもいるまっくろなねこである。わたしは、こっちのほうがコーヒーちゃんな気がするが、むすめはただの、くろいねこ、という。公園のはしにいるので、ぐるっとまわったむこうのはいりくちからもそのくろいねこは見えている。
「いつもいるね、くろいねこ」
「そうだね」
といって、近よりはしないが、ストライダーにのって、公園のなかに入っていく。公園といっても、ひとつのる遊具があるぐらいで、ほかはなにもない。立会川の駅に近いせいか、ベンチでたばこをふかしていたり、たむろしてのんでいたり、ぼんやりとしたおじいちゃんがいるぐらいで、なにもない。むすめは反対側のでぐちにむかってそのまま、シュー、している。
「うまい」
「上手」
そんなに急でもながくもない坂なので、シュー、はじきおわる。おわれば、そこは旧東海道である。むすめは、
「こわい道、いく」
といっている。こわい道、というのは、古いマンションとかなり古いとなりのいえのかべのなかをとおっていく、じゃり道、そしてそのさきのボロや、不法建築かとおもわれるおそらくやっていないであろうクリーニングやのまわりはくらく、木々でかこまれているぬけ道の空間のことである。ここはねこやしきのようなもので、むすめがゆうきをふりしぼってとおっていくときには、2、3、4ひきくらいのねこがのらなのか半のらなのかかわれている。
「おとうさん、まえいって」
「おとうさん、ストライダーも、もって」
といわれ、まえをすすんでいく。ストライダーを手にもってじゃり道をすこしだけいくと、もういた。
「いた」
「どこ」
「そこ」
ねこはゆびさしたほう、といっても、ほぼまんまえのひとんちのかべによりそうように、していて、あまりに近いためか、
「いた」
と気づき、びっくりしている。
「いた、いたね」
「やさしいかおしてる」
そうでもないとおもうのであるが、手をつなぎはじめたむすめはすこしびびっている。ひとひとりとおれるほそみちである。片手にストライダーをもってたてあるきでむすめと手をつないでいてはひじょうにあるきづらいも、そばにいるねこはおとなしくじっとしていてくれる。わきをぬけ、木々植木植木鉢ともどもにかこまれたくらくて、こわい道の本題へと入っていく。うっそうとした木々のなかはあらゆるものであふれかえっていて、ことりのふんが木々の葉をはじめとしていたるところにちらばっている。ひるまでもよいやみである。なんねんまえなんじゅうねんまえからしてここにあるのかわからない段ボールのはこ、いつの時代ともしれぬカンカラ一斗缶、薬剤の入っていたのであろうポリ、たてもののそともなかもおくもおびただしいものであふれかえっているものの、ごみやしきほどではない。ひとのくらしというものもかいま見えているらしい。ねこもいる。家のなかはあかりがついていてガラスとびらから見えている。おそらくはクリーニングのうけわたしがあったのであろう。
「いるよ」
むすめはむごんのまま、
「ほら、いるよ」
というと、むすめは家のなかをのぞく、
「どこ」
「ほら、そこ」
というと、いつからの書類伝票紙がはさまったのかわからないくらいのたなの上に、おきもののようにしている、しろとグレイのまだらのすこしおおきいくらいのねこがちんざしている。まねかれてはいないが、まねきねこのようなすがたにもとらえられて見ている。
「かわいいね」
とむすめは、ちょっとたちどまってながめられているのも、ガラス1枚があってクッションとなっているからであろう。まつこ、のときもそうである。それにしてもおとなしい。くびわはついていないけれども、かわれているのかもしれない。
「かわいい、でも、いこう」
といった、そばから、こんどは、ふるい木造アパートの2階につうずるような金属でできたきゅうな階段の上に、もちろん塗料ははげおち、さびついてむきだしになっていて、ねこはちょうどわたしのあたまの上くらいのところにいる。三毛にちかい、しろちゃきのまざったねこが、みみずくのように目をまるくおおきくして、こちらを見つめている。たてつづけのねこでちょっとこわくなってきたのか、むすめは、
「いこう」
といっていて、手をぎゅっとにぎりなおしている。ストライダーをもってすこしのだんさのところをていねいにむすめをつれてあるいていると、さらに木箱をつみあげられ、アパートの廊下のようなおくのところに、もういっぴき、ぼんやりとたたずんでいる。けなみがよろしくないのはわかるが、なんのいろをしているのか判然としない。目ばかりひかっている。むすめもそれを見ないでもかんじたのか、
「もう、いこう」
「こわい」
といっている。わたしたちはふりかえることをせずに、こわい道のとおりぬけを、あとにする。だれもすんではいないマンションの1階の駐車場のところにきてストライダーをいったんおろし、むすめの手をはなすことになる。むすめはひと安心見せたかおをして、安堵して、
「ふう」
といっている。ここにあるマンションはとりこわされもせずにエレベーターもうごかずしまっていて、ずうっとあるんだろうな、
「いたね」
と、むすめはいっている。それでもむすめはねこがいたこと、ねこがなんひきかいたことに満足しているようであった。にがてな、こわい道をとおってきて、ねこがいる、見た、ということをストライダーをもってもらったとしていても、父と手をつながれていたとしても、よろこびとして見いだしたようである。ボロいマンションからすぐのところに見えるくじら公園までの道のあいだは多少傾斜しているものの、わたしはあえて、「シュー」するとはいわず、そのむこうのほうに見えている京浜運河のコンクリートの土手を見ているのであった。
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