機能しない最後の砦

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機能しない最後の砦

明日花作業所では、少しずつ発達障害者の利用実績が増えていった。 しかし、彼ら彼女らには逆風が吹いていた。障害者年金についての法制度改正によって、障害者年金の更新が出来ずに生活が立ち行かくなってしまう人達が出始めたのた。 俗に言う、新ガイドラインという新たな認定基準により、発達障害や精神障害の特性を正確に把握しづらくなったために、一般就労も難しいのに障害年金を打ち切られる人達が出始めた。 最後の砦である生活保護の申請には、様々な制約がある。急激な環境の変化を苦手とする発達障害者にとって、持ち家を売却して不慣れな生活環境である賃貸アパートやグループホームでの生活に踏み切れずに、申請を躊躇しているうちに所持金が底をつくという事例が散見された。 また、独特のこだわりや過敏過ぎる感覚も理解されない。生活保護の範囲で暮らせるアパートは、騒音がうるさかったり、壁や床が薄く、隣人の生活音が響くような物件が多い。 明日花作業所に通っている利用者の一人も、障害年金の打ち切りよって生活が困窮して、生活保護の申請に行ったのだが、自家用車の売却を迫られた。 彼女は、発達障害の二次障害でパニック障害を患い、不特定多数の人と一緒に移動する公共交通機関が使えない。 いつもは仕事に対してクールな篠原さんが、珍しく怒り心頭な様子で、彼女の生活保護の再申請に同行することになった。 いつもは余計な仕事は抱え込まない篠原さんが、珍しいな。みずきはそう思った。事務室で施設長が呟く。 「ああ見えて篠原さんは、熱い人なのよ。熱い心と冷静な頭脳。あなたも学校で習ったでしょう。福祉を学ぶと必ず教えられる心得を」 施設長がみずきに微笑みかける。 「熱い心と冷静な頭脳、肝に命じます」 みずきは施設長を見て頷く。 篠原さんの手腕と段取りは見事なものだった。障害年金が打ち切りなったとはいえ、二次障害でパニック障害を併発していると、彼女の主治医から意見書を取り寄せ、役所の福祉課に提出した。 「しかし、身体障害でもあるまいし、車が無くても生活出来るでしょう」 役所の生活保護担当が篠原さんとうちの利用者を追い返そうとすると、 「申請させずに追い返すことは違法です。出るところに出ますよ」 後にその利用者さんから聞いた話によると、そのときの篠原さんの目は凍りつくほど冷徹な眼差しで、声だけが笑っているようで恐ろしかったそうだ。篠原さんの迫力に負けて、担当者は渋々申請を受け付けたそうだ。 明日花作業所では、今日も様々な作業が行われている。東雲さんは相変わらずマイペースで、自分の好きな作業しかやらない上に、上から目線で発言するものだから、他の利用者から煙たがられている。 みずきは、東雲さんと他の利用者さんとのトラブル解決に奔走している。篠原さんは、そんな東雲さんに一冊のパンフレットを渡した。 「東雲さんなら、ここに通う日以外は、他にも身銭を切ったボランティアが出来ると思うの」 篠原さんは、東雲さんの自尊心をくすぐるのが上手い。手渡したのは発達障害者のピアサポートのパンフレットだった。 「ふぅん。私みたいな有能な発達障害者が他の発達障害者の役に立つのは、人材の有効活用よね」 東雲さんは篠原さんの作戦に上手く乗っていた。作業時間が終わり、利用者さんが帰っていく。事務室で業務日誌をつけていた篠原さんがみずきに珍しく話しかける。 「東雲さんがもっと人と関われるようになった方がいい。あなた、この仕事はまだ三年目。それにしてはなかなか着眼点がいいわね。でも、その気づきをどうやって実現させるか。その手段を調べて利用者に伝える能力はまだまだね。もっと学んで精進しなさいよ」 業務日誌をサッと書き上げた篠原さんは、お先にと言って、颯爽と帰っていった。 40代のベテラン職員の篠原さんは、とてもクールだけど、冷たい人ではない。熱い心と冷静な頭脳を持った、障害者福祉のプロだ。 私も篠原さんみたいな冷静さと情熱を持ち合わせた職員になろう。 業務日誌を書き上げたみずきはそう心に誓った。 明日花作業所は、利用者の明日に花を咲かせるだけではなく、若手職員の明日にも希望という花を咲かせる場所のようだ。 施設長は、みずきと篠原の業務日誌を読んで、目を細めた。 障害児福祉の世界にこんな言葉がある。 「この子らを世の光に」 この言葉の肝は、この子らに世の光を与えてほしいというものではなく、この子らは世の光になれる存在だと云っているところだ。 そう、障害があってもその障害と共にひたむきに生きている利用者達に、この明日花作業所は支えられているのだ。私たち職員が利用者を支えるだけではない。利用者が私たち職員を支え、明日へと向かう力を与えてくれている。 施設長はみずきと篠原の日誌にコメントを書くと、事務室の電気を消して施設を施錠して家路についた。 世の中の人達は、障害者に冷たい。 でも、意地悪でそうしている訳ではない。自分の生活に余裕がないからだ。障害者に優しい社会を目指すなら、健常者が金銭的にも時間的にも生活に余裕を持ち、余暇をボランティアに使ったり生涯学習が出来るような環境が整わないと難しいだろう。 いつか、そういう社会になるように。 私たち職員は、一歩一歩、この作業所で出来ることを精一杯やっていく。 施設長は、帰り道を運転しながらそう心に誓った。
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