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街頭演説
金曜夜のメインターミナル駅前は、多くの人でざわめいていた。
会社帰りと思しき疲れた様子の人々、それとは対照的に賑やかしい学生たちが行き交う中、森天音は、一角にできた人だかりに注目していた。
中心にはマイクを持って演説している男がいる。周りより一段高いところにいるから、距離があってもその様子はよく見えた。
その人物の周りには、主に二十代から三十代くらいだろうか。多くの男女が集まって、演説に耳を傾けている。
演説している男は、巧みな言葉遣いや発声のメリハリを駆使して聴衆の心を鷲掴んでいるようで、集う人々は男の言葉に心酔し、一挙手一投足に目をやり、雄叫びを上げ、拳を掲げている。
まるで宗教団体の演説だな。天音は冷めた目でそれを見ていた。
「あいつ、知っているか」
隣で同じようにその様子を見ていた同僚の杉村慎也に声をかけられ、天音は「知るか」と短く答えた。
本当は知っている。あの男の出自、性格、どんな学生だったかも、恐らくここにいる誰よりもよく知っているはずだ。
しかし、天音の胸の中に秘めた思いなどわかりようがない杉村は、独り言のように続けた。
「すげえよな。無所属でのし上がってきてさ。街頭演説でこれだけ人を集められる奴、なかなかいないぞ」
「しっ」
天音はあからさまに口の前に人差し指を立てて、たしなめた。
「先生の耳に入ったらただじゃ済まされないぞ」
「そういうなよ、言葉の綾だ」
「先生がああいう奴を認めないの、君もわかってるだろう」
「まあな。けど事実じゃないか。有名な政治家でも、ここまで聴衆の心を掴む演説をするやつはいない」
杉村はまるで政治家批評を楽しんでいるかのようだ。天音は心の中で舌打ちをしたが、すぐに話題を変えた。
「今夜は会食だったな」
「ああ、夜中まで帰れなさそうだ」
杉村は天音の肩をぽん、と叩いた。
「お前は先生のお気に入りだからな。最後まで付き合うんだろう」
「ああ、先生を無事に送り届けるまでがオレの仕事だ」
そのとき、一際大きな歓声が上がり、天音は振り向いた。
演説者が何か最後の締めの言葉を言ったのだろう。盛り上がった聴衆は、まるでライブコンサートのように拍手をしたり、鳴り物を鳴らしている。
「なんていったっけ? あの男」
「志賀怜矢だ」
「そういや先生も苗字は「志賀」だな。関係あったら面白いのにな」
杉村はくくっと含み笑いをすると、すぐに続けた。
「ま、あんなヤカラみたいなやつと先生が関わりがあるけわないがな。そろそろ行こう。先生が出ていらっしゃる時間だ」
杉村は天音を急き立てると、先頭に立って歩き始めた。天音もその後に続きながら、後ろを振り返る。
「志賀、怜矢……」
小さな声でその名を呼べば、舌の上に苦味が蘇る。思い出の味だ。苦くて甘いとわかっているくせに、味わわずにいられない過去のひとときだ。
聴衆に手を振り応援に応えながら、志賀怜矢が何人かの取り巻きに囲まれて、こちらに向かってくるのが見えた。
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