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01話(1)
「お前いらねぇ、飽きた」
「……は?」
高層マンションの30階、3005号室の前で事態は起きていた。胸元が広く開いたハイブランドのワンピースに10cmほどのハイヒール、お菓子の山に埋もれていたのかと思うほどの甘い甘い香水を纏った女性が、彼氏に呆気なく振られていたのだった。
「何を言ってるんですか、悠馬さん!? 彼女は私ですよね!?」
川上咲、28歳。大手商社で営業補佐を務めている派遣社員だ。必死な顔で彼氏にすがっているが、その彼と隣にいる女性は半笑いで咲を見ている。
「本名はこっち。じゃあな。ゆり、おいで」
「はーいっ」
そう言って彼氏は本命の彼女と部屋に入っていった。ガチャンと鍵をかけられた音は、咲の心に重く響き、内部でじわじわと反響してゆく。胸が痛くなり、だんだんと息苦しくなる。
「ちょっと待って、どういうこと!?」
咲の彼氏、霧島悠馬は、派遣先の上司でもある。営業部のエースで、34歳の若さにして課長に就任、将来有望のイケメン社員だ。
この悠馬のミスにより、咲と本命の彼女が玄関前で遭遇したのだった。
「当然私を選ぶだろう」と余裕だった咲の思惑とは裏腹に、悠馬は丸めたティッシュをゴミ箱に捨てるかのようにいとも簡単に咲を捨てたのだった。
「ゆっ、悠馬さん!? ねぇ、ねぇってば!」
右手の甲でドアを優しく叩いていた音は、今にも破壊しそうなほどの凶暴的な打撃に変わる。ドアノブも思いっきり引っ張るが、当然開けられるはずがない。
『うるせぇんだよ! 警察呼ぶぞ!』
インターホン越しに、悠馬から罵倒される。もう修復は無理だろう。咲はその場で崩れ落ち、両手で頭を抱えた。
「悠馬さん……なんで……何が悪かったの? どうして私は選ばれなかったの?」
しかし涙は出なかった。悲しさや寂しさよりも、怒りや憎悪が勝っていたからだ。
「どうして……どうしてくれるのよ! これじゃ私のセレブ生活が台無しじゃない!」
ギリッと八重歯を剥き出し、奥歯を噛み締める。悠馬に捨てられたというよりも、ハイスペックな男性を失ったことに失望していたのだ。
頭を抱えていた両手も拳に代わり、最後に一発、悠馬が買ってくれたバッグで扉を叩きつけた。
「許さない……! あいつより絶対いい男見つけてやるんだから!」
そんな壮絶な別れから2ヶ月が過ぎた。
職場に居づらくなった咲は、契約更新を前にして辞職。「就活をするぐらいなら婚活をしてやる!」とマッチングアプリで出会った男性とデートを繰り返していた。
「あー、もうほんっとありえない! プロフ写真と実際の顔全然ちがうし!」
白色のブラウスに、薄ピンク色のタイトなスカート。ボディラインを強調させながらも、上品さは欠かせないスタイルで、ランチデートをしてきた。本日のディナーには他の男性とのデートが入っている。
「年収は950万円でちょっとだけ物足りなさはあったけど、イケメンだったから妥協してやったのに! 何あれ? 詐欺レベルじゃない?」
男性のホーム画面に載せられた写真を100点満点とするならば、本物は20点ぐらいだった。咲はその男の写真を何度も指で連打し、ストレスを発散させた。
「てか会計は別々とかマジありえないんですけど!? 3,000円のランチごときで普通しなくない?」
よほど咲に魅力を感じられなかったのか、もしくは超倹約家か。いずれにせよ、咲からすれば最悪な男だ。ブツブツ呟きながら、赤いヒールを地面に叩きつけながら荒々しく歩く。
「もう次、次! こっちには大量のメッセージが届いてるの、あんたに構っている暇なんてないわ!」
自身のホーム画面を開く。今日の男は即ブロック。送信先のプロフィールを隈なく分析していく。
これまで20人の男性と出会ってきたが、自分のレベルに叶う魅力的な男性とは一向に出会わない。咲の過剰なほどのプライドが邪魔をしている。
「この人、年収は高いわね……でもだいぶ年上。蓋を開けたら、バツがついている男ね。年収が高くても、子供の養育費に当てられちゃ困るわ、なしなし!」
世の中には、年の差婚も珍しくはない。離婚歴があろうが、子供がいようが再婚して幸せに暮らす人もいる。しかし、咲はそういった家族愛のような幸せは求めておらず、自分さえ楽に生きられれば幸せなのだ。咲がここまでセレブ生活にこだわるのには理由があった。
幼少期、咲の家は貧乏な生活をしていた。周りからは「臭い」「ビンボー」「ボロ屋敷」など散々罵られていた。友達もいない。冷たく光の見えない深海で息を潜める魚のように、ひっそりと毎日を過ごしていた。稼ぐ能力のない親にも嫌気が差し、社会人になってから連絡は一切とっていない。
幼いながらに、世の中は金が全てだと理解できた。金があれば自由だ、金があれば馬鹿にされない、金があれば奴らを見返せる。咲の中で植えつけられた種は、毒花となって開花した。
「にしても、そろそろ貯金が尽きて危ない……。アプリで出会う人にブランド品を買ってもらって売り捌くか……いや、それじゃ効率が悪すぎる。それにブランド品はステータス。持っていて損はない。ならもう一度大手会社に派遣として……」
ふと、かつて働いていた派遣先の会社を思い出してしまった。嘲笑うように咲を振った悠馬の顔も浮かび上がり、咲の横に並ぶアパレルショップのショーウィンドウを右拳で殴る。展示されていたマネキンのスカートが少しだけ揺れた。
「あの男のせいで私の人生計画は台無し。20代後半、女性にとってどれだけ大事な時期か分かってるの!?」
結婚する年齢など個人の自由なのだが、30代を越えた未婚女性は嫁に行き遅れたように感じる女性も少なくはないだろう。なかには「結婚って大変だよ〜」と、人生の先輩面をして遠回しのマウントをとってくる女性もいる。咲はマウントをとられることを大いに嫌い、自身がカーストの頂点に立っていないと気が済まないのだ。
「次の彼氏とは絶対に結婚しなきゃ」
焦燥感と怒りに満ちた咲は周囲が見えず、目の前にいる通行人を手で払い除け、対向する通行人とは肩をぶつけながら前に進む。この先の横断歩道を渡り、10分ほど歩くと家に着く。ディナーデートの準備をすべく、早足で歩いていた。
「おばさん! 危ない!」
「あ”?」
背後から小学生におばさん呼ばわりをされた咲は、キレた口調で返事をする。踵を返し小学生に向かって猪突猛進。左から鳴るクラクションに気づいた時はもう遅かった。赤信号だった横断歩道の上にいた咲は20メートル先に一瞬で飛ばされた。
──ちょっと、待っ、てよ……デートが……ある、んだか……ら……
運転手が青ざめた顔で咲に近づき、交通は止められる。あたりは喧騒に包まれ、小学生は泣き喚く。しかし咲にはもう何も聞こえなかった。
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