01話(2)

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01話(2)

 ガラス窓から太陽の光が差し込む。咲が目を覚ますと、視界には黒いスカートとベージュのタイツを履いた自身の太腿があった。どうやら座りながら眠ってしまっていたらしい。 「……夢? やけにリアルだったな」  体に痛みは感じないが、トラックが迫ってきたあの瞬間の緊張感は思い出すだけで冷や汗が出る。右手に持っていたペットボトルで乾いた喉を潤す。 「今日は誰とデートだったっけ……ってあれ?」  咲が目覚めた場所は自身の部屋でもなく、病室でもなかった。スーツ姿の男性が忙しなく目の前を横切り、オフィスカジュアルの服装をした女性は、テイクアウトした珈琲を片手に資料を見ている。飾り気のない無機質な空間に、何十もの足音が響いていた。  ここは咲の派遣先会社が入っているビルの総合ロビーだった。 「会社!? なんで!?」  咲がキョロキョロと辺りを見渡す。出社した他会社の人たちは、慌てふためく咲を一瞥しそのまま通りすがる。咲は落ち着きを取り戻すべく、深呼吸を3回繰り返したが、混乱状態は変わらない。とりあえず、できるだけの記憶を捻出した。 「会社は……2ヶ月前に辞めてるよね。だから会社に来る必要もないけど、今ここにいる。私の服装もバッグも当時のまま……いや、入社した頃に使っていたものだ」  咲は何度も記憶を巡らせたが、最後に思い出すのはやはり交通事故だった。 「あのガキ……おばさんって言ったわね」  今思い出しても腹が立つ。咲は相手が幼児であろうと老人であろうと容赦しない。自分を愛し甘やかしてくれる男性にしか興味がない。 「よく分かんないけど帰らないと。ここじゃ悠馬さんに会いそうだし」  咲は椅子から立ち上がり出入り口に向かうと、ちょうど扉から人事部の課長、藤山壮輔(ふじやまそうすけ)が入ってきた。彼もまた悠馬と同じく、若くして課長になった人物だ。悠馬よりも3歳年下の31歳。咲が辞める直前に課長に上がったばかりの期待の新米課長だ。 ──藤山さんかぁ……悪い人じゃないけど辞めた以上、職場の人と会うのは面倒だな  軽く会釈をして立ち去ろうと、咲は足を止めずにそのまま進んだ。ヒールの音がロビーに小さく響き、藤山の足音と重なる。 「あ、川上さん! おはよう!」 「……おはようございます、藤山課長」 「……課長? いや、俺は主任だぞ」  咲は藤山に違和感を覚えた。話したことはあるが、冗談を言い合うような関係性ではない。それに藤山がほんの少しだけ若く見える。咲は何十人もの男性を見てきたからか、些細な変化にも敏感だった。しかし今回ばかりは気のせいだろうか。咲は話を続けた。 「この前、昇進されていましたよね?」 「何を言っているんだ? 最近昇進したのは霧島さんだ。若くして課長だからな、本当すごい人だよ」 ──最近? おかしい。悠馬さんは1年前には課長になっていたはず  悠馬が課長に昇進したのは、咲が入社する2ヶ月前のことだった。悠馬が酔っ払った時は、自分が課長になった時のことを自慢気に何度も話していた。その憎たらしい顔を思い出し、咲は小さく舌打ちをした。 「あの私、辞めましたよね?」 「何を言ってるんだ? 前の派遣先ならきっと会社側が手続きをとってくれている。安心してくれ」 ──課長になっていない藤山さん、私の服装。どこか入社日と似ている……  咲はロビーのソファの前に設置されている巨大モニターを見た。ここには各会社の案内や株価、週間天気などの情報が流れている。その右下に日付と時刻が表示されているのだ。 ──2019年4月1日。やっぱり! 1年前、私がここに派遣された初日だ  目を見開きそして黙り込む咲の姿を見た藤山は、つられてモニターを見るが何も異変がない。藤山は首を傾げ、目線を咲に戻した。 「藤山さん、あのモニター壊れていませんよね?」 「あぁ、特に問題ないと思うが……どうしたんだ急に?」  咲は両手で頬をぺちぺちと叩き、左手の甲も右指で小さく抓ってみるも、痛いだけで何も変わらない。両腕を組み、しばらく考える。一方、藤山は挙動不審な彼女の行動に驚かされてばかりだが、彼女からの言葉を黙って待っていた。 ──夢でもない……意識もこんなにハッキリしている…… ──だとすれば残る答えは何? 私は死んだはず……死んだ? 「もしかして転生してる!?」    驚嘆とした声がロビーに響く。藤山は不審者を見るような目で咲を見ていた。困惑するのも無理はないだろう。 「え、あの……すみません」    なぜ転生したのか、どうして入社日なのかは分からないが、転生したとすれば、自分の服装も少し若い藤山もモニターも全ての辻褄が合う。 「……川上さん、さっきから大丈夫か? 初日だからって緊張する必要はないぞ」  藤山は上司として気を持ち直し、なだめるように優しく声をかけた。 「いえ、その……ちょっとお手洗いに行ってきます!」 「あぁ、トイレはその角を……って場所知ってるのか?」  藤山の返事を聞かずして、咲はトイレに逃げ込んだ。 「転生しているなら、きっと私も……やっぱり。入社した頃はこの髪型だったもんね」    暗い茶髪にボブヘア。しかしメイクは初日だというのに、濃く仕上げている。いつどこで魅力的な男性と出会うか分からないからだ。いつでも戦闘準備はできている。 「となると、もう鞄も見なくても分かりそうだけど……」  パウダールームの机の上に、鞄の中身を取り出した。薄紫色の手帳の表紙には2019年の文字。4月のページを開くと、1日のマスに『派遣開始!』とだけ書かれており、それ以降は真っ白だった。スマホの日付もモニターと変わらない。ポーチも化粧品も財布も、何もかもが1年前に使っていたものだった。 「はぁ……そんなことってあるの? ってかこの状況、どうにかなんないわけ? 転生できたんだから、1年後にだってすぐに飛べるでしょうが。あぁ、でも死んだのか……」  鏡に映る自分に向かって、輪廻転生のようなスピリチュアルな言葉をぼやく咲は、誰から見ても怪しい存在だ。右隣でメイク直しをしていた女性は、咲を恐れ、慌ただしくポーチにグロスを詰め込んで小走りでその場を去った。 「どうしろっていうのよ……また同じ人生を歩めっていうの?」  思い出すは悠馬にひどく振られたあの瞬間だった。何度思い出しても腹が立つ。今の鏡に映るは、咲ではなく般若だ。  悠馬とは、今日から派遣されるこの会社で出会い、彼の営業補佐として配属された。優しくて部下思いのエリート、上層部からの信頼も厚い。課長で年収も高いと予想されることから、咲はすぐさま近づいた。媚びを売り、精一杯の可愛さをアピールした咲の策略が成功し、悠馬が恋に落ちた。と、咲は思っている。 「……ってことは悠馬さんが私を好きにならなかったら問題ないのかな」  しかし悠馬は咲の魅力に落とされたわけではない。この時、悠馬はすでに彼女がいたがマンネリ化していた。刺激を求めるタイプの悠馬は、遊び相手としてちょうど横にいた、尻軽そうな咲を選んだのだった。  そうとは知らず、表面の良い悠馬に咲は騙され続けた。そして半年が過ぎた頃に本命の彼女、ゆりとばったりと遭遇。咲よりもゆりの方が美人でスタイルも良い。悠馬は迷わずして、咲を捨てたのだった。  今まで咲が積み上げてきた男性を見る目は、ハイスペックすぎる悠馬の前では効力をなさなかったようだ。 「でも避けるんだったら、この派遣先を辞めた方が早いんじゃない?」  とはいえ、すぐに仕事を変えられるはずもない。それに初日でリタイアしているようでは、派遣会社にも居られなくなるだろう。しかし当分の貯蓄があるならば、無職になってもしばらくは平気だ。咲はスマホアプリで口座残高を確認した。 「3万円!? ちょっと昔の私、貯めておいてよ!」  この頃の咲も、退職後とあまり変わらない。婚活やマッチングアプリで男を漁る日々だった。そしてインスタ映えのために、ハイブランドの服やコスメを買い漁り、カフェやナイトプールなど映えるスポットばかりに出かけていた。ちなみに、ナイトプールで映る友達は3時間15,000円のレンタルフレンドだ。この残高は承認欲求を追求しすぎた結果とも言える。 「これじゃ仕事を辞めるわけにはいかないじゃない!」  通帳アプリをスワイプして、画面から消した。残高の低い通帳ほど見ていて苦しいものはない。自分の過ちなのだが、まるで他人事のように逆ギレをする。 「なら悠馬さんを避けながらマッチングアプリで……いや、この頃アプリで出会った男性はクズすぎた。さすがに顔まで覚えてないから、接触する可能性は大。婚活パーティも同じね。無駄な時間が取られるだけ」  両腕を組み、記憶を巡らせる。  婚活歴10年。社会人になってから、すぐさま婚活を始めた。働きたくなどなかった。セレブで楽に生きられるのであれば、それで良かった。  咲が派遣社員となったのも、このためだ。高卒で特に資格もなく、何かの専門的な知識もない。大手企業への就職は難しかった。しかし、派遣会社なら大手に配属される可能性もある。婚活的に脈がなさそうな会社ならば、契約の更新を断ればいい。それを繰り返し、配属先も派遣会社も転々としてきた。  そして今まで出会ってきた男性の中で、咲の査定を合格できたのは悠馬だけだった。だから悠馬だけは絶対に手放したくなかったのだ。  考えること15分が経過した。時刻は8時50分、始業時刻10分前だ。 「さすがに初日で遅れるわけにはいかない。給与も減るし。あぁ! もういい男、どっかに転がってないの? この際、少し妥協してあげるわ!」  咲の言う妥協は、求める男性の年収1,000万円が900万円になるとか、185cmの身長が180cmになるとか、そういった些細なレベルの妥協である。妥協したとて、理想が高いことには変わりない。  はぁ、と大きくため息をつきながら散らばった私物を鞄に詰める。足取り重く、パウダールームを後にした。
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