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12話(3)
咲は言葉を発することもできず、魂が抜けたようにその場に座り込み頭をガックリと下げた。やはり涙は出なかった。
脳内でこれまでの日々が光速で逆再生され、かつてフラれた日で停止した。場所や時期が違ってもフラれた事実は変わらない。これまでの努力は全て水の泡だ。
遠くからキィッとドアの軋みが聞こえ、コツコツとヒールが床に打ちつけられる音が近づく。
「あれ、川上さん? こんなところでどうしたんですか?」
見上げると休養室から戻ってきた田崎が見下すように笑っていた。この時、咲は全てを悟った。倒れたこともまぐれではなく、全て田崎の計画通りに進められていたことを。
「田崎……! あんたずっと騙していたのね」
「えぇそうよ。藤山さんと付き合ってるのは私」
「いつから……」
「もう2年前からかな~? あなたが壮輔さんと付き合ってるって言い始めた時は驚いたわ」
咲が転生したタイミングで事実が変わったのではない。実は咲が知らなかっただけで、転生前も二人は秘密裏に付き合っていた。田崎は人事部に異動することなく、婚約発表をするまで広報部に属していたため、二人の関係に気付く者もいなかった。悠馬でさえ「藤山に女の子を紹介してあげてよ」と言ったぐらいだ。
しかし転生後は、田崎が人事部に異動したことで、周囲は仲睦まじい二人の姿を見ることが多くなり、その関係に勘づく者もいた。悠馬も例に漏れない。しかし咲は、転生前の悠馬の言葉をずっと信じていたのだ。
「なんで言わなかったのよ!」
屈辱と憎悪が込められた咲の怒号が廊下に響いた。田崎は目を細めて、両手で耳を塞ぐ。引きつった顔からは八重歯が見えた。
「なんでって……付き合ってること秘密だったし、合わせるしかなかったのよ」
「そういえば言いじゃない!」
「嫌よ、あなた口軽そうだもの」
「……あんたねぇ!」
「人のこと言える立場? 残業までさせて、あんなアカウントまで。あんた正気?」
田崎はかがんで、人差し指で咲の額を2回突いた。「アタマダイジョウブ?」と、咲のおつむを馬鹿にしているのだ。咲は右足のヒールパンプスを脱ぎ、勢いよく田崎に投げつけるが、掠ることなく交わされてしまった。投げ出されたそれは、まるで咲の分身のように廊下の真ん中で悲壮感を漂わせている。
「あんたのせいで私の計画がめちゃくちゃよ! 今後どうしてくれるのよ!」
「知らないわよ。占ってみたら?」
「なっ……!」
占い師だった咲の存在を見抜いているかのように、田崎は咲に向かって楽しそうに話を続ける。
「占い師が結婚を後押ししてくれてね? あぁ、どこにいるのかなぁ。感謝したいなぁ」
「…………田崎ぃいぃい!」
憎悪や憤怒は殺意となって咲の心に芽生えた。顳顬に流れる血は痛いほどにドクドクと脈を打ち、鼻息を荒くして小刻みに呼吸を繰り返す。かろうじて理性が保たれているものの、今の咲に凶器を与えてしまえばそれがトリガーとなって吹っ飛び、田崎を襲うだろう。
「じゃ、お疲れさまでした、川上さん。ふふ、どうぞお幸せに」
田崎は皮肉を込めた占い師の言葉をお見舞いした。人事部の扉を開け、最後に咲を一瞥し、フッと嘲笑いながら消えていった。
──何なの何なの何なの!? どいつもこいつも馬鹿にしやがって!!!
今にも切れそうな顳顬の血管を鎮静させるように両手で強く抑える。屈辱や憎悪が蟠る殺意が咲を支配し、わずかに残る理性で合法的に奈落の底へ墜落させる方法を画策する。このままでは終われない。敗北で終わるなど咲のプライドが許さなかった。
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