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第二章
会社を出て帰宅のため、いつも通り駅へと続く歩道を歩いていると後ろで大きな音がした。振り返ってみると、つい先ほど自分の横を通り過ぎて行ったSUVが交差点で横転していた。
『まただ』
誰かが救急車を呼んだのだろう、遠くのほうからサイレンの音が近づいてくる。ドライバーは30代後半の男性だったような気がするが、はっきりしたことはわからない。
どこにでもある単独事故だったのでニュースにもならなかった。しかし、はた目には不思議な事故だった。SUVは一見横転しているように見えたが、よく見たら完全にひっくり返っていた。でも炎上はしていなかったし、何より事故原因がわからなかった。夜とはいえ天候もよく無風だったし、障害物も見当たらなかった。事実SUVは何かに衝突した訳でもないのだ。
だが、この場所では今回のような、はっきりとした原因の分からぬ事故が過去1年の間に数回起きていて、魔の交差点と呼ばれている。
では、本当の原因は?
近隣住民の間で囁かれている噂がある。
それは、2年前に同じ交差点で起きた1台の車の単独事故だ。スピードの出し過ぎでガードレールに激突した。警察の調べによるとブレーキに不具合があったことがわかっているが、その原因まではわかっていないらしい。乗っていたのは3か月後に結婚式を控えていた29歳の男性と、26歳の女性だったが、ともに搬送された病院で死亡が確認されたという。当時たまたま現場に居合わせた人の話によると、女性のほうは即死状態だったようだが、男性のほうは虫の息があったようで、指輪が入っていると思われる箱に手を伸ばしていたが、届く前に意識を失ったという。
女性のほうは自分が亡くなってしまったことに気づいていないのか、認めたくないのか、その後もその場を離れることができずに彼氏を探しているという。そして、その場を通る彼氏と同じ年頃の男性ドライバーを見かけると乗り込んで確かめるとか。そして、彼氏ではないことに失望して、悲しい思いを噛みしめるというのだ。頻繁に起こる不可思議な事故のせいで、そんな憶測がまことしやかに語られているという。
2-1
なぜということはなしに、松宮渚は夏のまだ暮れきらないこの時刻が好きだ。生暖かいきまぐれな風に身を任せながら、歩道沿いに植えられた街路樹の作る薄い影の中をゆるりと歩く。頭上で揺れる葉の向こうに町はほんの少し橙色を帯びている。
外出先から部長の中川に連絡を入れたら、そのまま直帰してもいいと言われ、すぐさま仙道那奈にラインで連絡を入れた。
-私部長から直帰していいって言われた-
-なんでよ まだ5時前じゃん-
-だっていいって言われたもん。だから、『おみなえし』に先に行ってるから-
-相変らず部長の渚びいきはひどいね-
-私、ひいきされてるとは思ってないけど-
-そう思ってるのは渚だけ。とにかく、私は後で行くから-
-わかった。待ってる-
三軒茶屋にある串揚げ屋の『おみなえし』は、会社の帰りに那奈と二人でたまたま立ち寄った店だ。店長の健太郎の気っぷの良さや店の雰囲気が居心地がよくて今や常連になっている。
那奈は同僚であり、かつ飲み仲間だ。他にも仲が良い子はいるけれど、ことお酒を一緒に飲む相手としては那奈が一番合った。飲むお酒の種類、飲む量、飲むペースなどがすごく似ているので、へんに気を遣わずに楽しく飲めるのだ。
「健ちゃん、ちょっと早いけどいい?」
店に入り、開店の準備をしていた店主の関水健太郎の後ろ姿に声をかける。
「おう。誰かと思ったら渚ちゃんか。だいぶ早いけどいいよ」
とりあえずいつも座るカウンターに陣取りスマホをいじっていると、店のスタッフが二人奥から出てきた。
「ああ、渚さん。今日はお早い出勤ですね」
ニヤニヤしながら冗談を言うこの男の名は大友英彦。26歳。独身。イケメンなので、英彦を目当てに来る女の子も多い。
「やめてよね、オミズの子みたいじゃない」
「そうだよ。どう見ても渚さんは真面目なOLっていう感じじゃないか」
そうフォローしたのは、もう一人のスタッフの羽田貴明。貴明は2カ月前に辞めた子の後釜としてこの店に入った。なので、年齢は30歳だけど、この店では英彦の後輩になる。イケメンではないけど、とにかく優しい。
「でも、渚さんみたいな一見真面目そうな子が案外男を狂わすんですよ」
女性経験が豊富であろう英彦に言われると、がぜん信憑性が高まってしまう。
「ひど~い」
「もうそのへんでやめておけよ。ところで、那奈さんは?」
貴明は那奈のファンを公言している。
「後から来ます」
「そうですか」
明らかに嬉しそうな貴明を見ると、別に貴明が好きでもないけど、ちょっと嫉妬する。
店が開店すると、徐々に客が入ってくる。渚が軽いおつまみと焼酎の水割りをちびりちびり飲んでいると、ようやく那奈がやってきた。
「お待たせ」
「ちょっと遅かったね」
「部長につかまっちゃったからよ」
中川部長は話が長いので有名なのだ。そして、その中川部長も那奈のファンである。
「あっ、そう。で、何飲む?」
「もちろん、まずはビールでしょう」
二人で飲む時は真冬であれ、まずはビールで乾杯する。
「了解。じゃあ、貴ちゃん、那奈ちゃんに瓶ビール1本」
健太郎ではなく那奈のファンの貴明に言う。
「は~い。那奈さんから瓶ビール1本の注文いただきました」
背中をまっすぐに伸ばし、店中に響くような大声で叫ぶ。
「何であんな大声あげるのかしらねえ」
「那奈が来たとたんにテンションあげちゃうのよね、貴ちゃん」
「もう面倒くさいったらありゃしない」
そうは言うものの、満更ではない顔をしている。女は、いや人は誰でも自分に好意を持ってくれる人がいると気分が高まるものだ。
「いらっしゃいませ~」
今度は英彦が店の入り口に向かって声を出した。つられて渚たちも振り向くと、二人組のサラリーマンが入って来たところだった。
「森山さん、どうぞこちらへ」
英彦が指示したのは渚の隣の席だ。名前を呼んだことや、英彦の態度を見ていると、どうやらこの二人組も常連のようだ。そう言えば、他の席に座っている二人を以前も見たような気がする。
「すみません。お隣、いいですか?」
断ることなどできないに決まっているのに、立ったまま男たちが言った。
「どうぞ」
そう答えながら、渚は男の様子を見上げた。そこには、眩しいほど爽やかで、怜悧な顔があった。思わず心が少し浮き立つ。
『感じいい人たち』
そう思ったけれど、その時はそれだけのことで、すぐに忘れてしまった。
だが、その後も何回か店で顔を合わせる機会があり、その都度渚たちの隣に座ることが多く、自然と口をきくようになっていた。
一人は森山和也、もう一人は大橋洋介という名で、共に大手メーカーの研究所で働いている同僚だと紹介された。年齢は二人とも今年29歳になるということだったので、間もなく26歳になる渚たちより3つ上ということになる。
行きつけの店で偶然出会った飲み友達のようなものになり始めてはいたけれど、それ以上の気持ちが動くことはなかった。那奈には付き合っている人がいたし、渚にもまだ付き合ってはいないものの、社内に好意を持っている人がいたからだ。
「健ちゃん、あの二人どう思う?」
那奈が健太郎に話しかけている。
「あの二人って?」
「森山さんと大橋さんのことですよ」
英彦が那奈の代わりに健太郎に答えている。
「ああ、あの二人ねえ。どう思うっていう意味がわからないんだけどさあ」
「要するに結婚相手としてどうかって言う意味よ?」
「ええー、那奈さん、あの二人をそんな風に見てるんですか」
貴明が意外というか、心外という響きで言った。
「あのねえ、貴ちゃん。私たちのようなお年頃の女は、男を見る時そこを考えて品定めするの」
「おそろしい」
英彦がそう言うのも無理はない。渚はそんな風には見ていないからだ。
「女ってね。超現実的な生き物だからそうなるの」
「女すべてがそうじゃないわよ」
渚が訂正しておく。
「もちろん、感情に流される時もあるけどさあ」
渚からすれば、那奈はいつも感情に任せて生きているように思える。
「だって、那奈さんって会社の人と付き合っているんでしょう」
那奈のファンの貴明は気になるのか複雑な表情でツッコム。
「そうよ。だけど、その男と結婚するってまだ決めたわけじゃないしね」
「じゃあ、俺にもチャンスがあるってわけ?」
「チャンスはね」
「ダメダメ、貴さん。こういう人には振り回されるだけだから」
店一番のモテ男の英彦が貴明に適切なアドバイスをした。
こんなやりとりがあったせいか、渚は、あの二人組について少し考えるようになっていた。
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