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2-4
翌週のデートの時、渚は自分の過去の恋愛遍歴だけを書いた『履歴書』を持って行った。小学校時代の初恋から始まって去年末に別れた男まで、全部で7人との恋の履歴書。
「これどうぞ」
「えっ、これって…」
そう言った後、絶句した森山。
もちろん、それが何を意味するかはすぐにわかったはずだ。
そんな唖然とする森山の姿を見るのが渚は好きだった。
「私の恋の履歴書です」
「そのようですね」
衝撃が強かったのか。表情が固まっていて感情が読み取れない。
「きっと森山さんが一番知りたい私の履歴はこれだと思って」
「そ、それは…」
「さあ、何でも質問していいですよ」
自分ができる最大限の妖艶な笑みを作って言って見る。だが、肝心の森山は履歴書を見つめたままだ。ちょっと刺激が強すぎたか。
「いやあ、何というか。松宮さんって、すごいですね」
予想通りの反応に、渚は勝利の感覚を味わっていた。
「何が?」
予め綿密に計算されたあざとさを演じて見る。
「だって…」
戸惑って何を言ったらいいかわからなくなっているようだ。
「だってじゃなくて、質問は?」
「おいおいさせていただきます」
「わかりました」
二人の付き合いは、こうしてちょっと変わった形でスタートしたが、そのせいか、距離の縮まるのは案外早かった。
デートはドライブが多かった。森山は元々車の運転が好きで、その延長でレースをするまでになっていた。
「和也、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
すでにお互い名前で呼び合うまでの関係になっていた。
いつものように森山が渚の住むマンションまで愛車のレクサスのセダンで迎えに来て発車したばかりのところだった。
「今日は渚が前から行きたいと言っていたレース場に行こうと思って」
「ほんと? 嬉しい」
森山がレースをしていると知ってから、そのレース場を見て見たいとずっと言っていた。
「ようやく先方の許可がおりたんだよ」
「許可?」
「渚を横に乗せてレース場を走らせてもらう許可」
「ええー、そんなことできるんだ」
「だから、特別に頼んだ」
「和也、ありがとう」
運転している和也の頬にキスをしようとする。
「ダメだよ渚。危ないから」
公道を自分の車で走る和也は、模範的過ぎるくらいの安全運転だった。聞くところによれば、レースをする人間はみんなそうだと言う。車に乗る楽しさと同時に怖さも知っているからだろう。あおり運転をする運転手が許せないと力説していたこともあった。
途中鎌倉に寄り、海岸沿いの、眺望のいいことで知られる喫茶店ホアカフェに入り、窓際の席に座る。和也はコーヒーを注文し、渚はアサイーのスムージーを注文した。窓から見える今日の海は静かで美しかった。
「渚、あの履歴書の4番目の男性とはどうして別れたの?」
二回目のデートの時に自分が和也に渡したのが、恋の遍歴を書いたものだった。おもしろ半分で渡したものだけど、もうすっかり忘れていた。
「何で今?」
「渚の横顔を見ていたら、すごく綺麗だなと思って。でもそう思ったら、あの男性に嫉妬しちゃって。だから…」
どうやら渚が和也にかけた恋の魔法は成功したようだ。
「そういうことね」
渚が過去付き合ってきた男性の中で一番長かったのが、その男性だった。およそ3年半付き合って、結婚を考えた時期もあった。
「教えてくれる?」
「聞きたい?」
「うん」
「どうしようかな」
「あの時、何でも質問してもいいって言ってたじゃないか」
「そうよね」
そこで間を空けた。別に深い意味があったわけじゃないけれど、和也の気持ちをじらしたかったのと、自分の中で話すことに少し戸惑いがあったからでもあった。
「彼に合わせようとばかりしていて、素の自分でいられなくなっちゃって疲れちゃったの」
彼のことは本当に好きだった。だから、嫌われたくない一心で、彼に合わせることだけを考えていた。まだ恋に純真な時だった。
「そう。でも、そこまで渚に愛されたその男が羨ましいよ。本当に好きだったんだね」
「その時はそう思ってた。でも、今は違うような気がしている。本当に好きだったら、素の自分を見てもらいたいって思うんじゃないかなあ」
「なるほど。そうかも。僕には素を見せてるかな」
「見せてるでしょう」
「そうだね。この間なんて僕の前でオナラしたもんね」
「やめてよね。和也が私の前でオナラしたんじゃない。でも、すっぴんは見せてるよね」
「そうだね。すごく可愛い」
コーヒーを飲みながら海を眺める。こうして和也とデートを重ねていく中で、渚は二人の関係が一つの恋で終わるのではなく、ともに築く未来を夢見るようになっていた。だが、ことはすんなりとはいかなかった。
ある土曜日の出来事。
取引先とのトラブルが起き、担当者である渚は土曜日にも関わらず出社した。先方の怒りようから説得には1日かかると思われたが、誠心誠意対応した結果、幸いにも先方から納得した旨の連絡をもらい、午前中には会社を後にすることができた。思わぬ出社だったため、和也とのデートは中止していたので、久しぶりに一人でショッピングをして帰ることにした。
電車を乗り継ぎ銀座に着く。散歩を兼ねたウインドウショッピングを楽しんだ後、デパートに入り、前から欲しかった化粧品を買う。それだけで気分は高まっていたけれど、せっかく銀座まで来たのでメトアカフェアンドキッチンに寄りケーキを食べた。ここのところ、休日はほぼ和也と一緒に過ごしていたので、たまにこうして一人の時間を作るのも悪くないと思う。
時計を見ると、いつの間にか午後4時を過ぎていた。店を出て地下鉄の銀座駅に向かって歩きながら、渚はなんとはなしに反対側の歩道に目を向けた。すると、多くの人の流れの中に見慣れた男女がいるのを発見してしまった。
そこには、渚を無条件に切なくさせる風景が広がっていた。
内臓が空っぽになっていく。
神様の悪意が空から降ってきて、渚を暗い渦の中に巻き込もうとしているようだ。
指先がひんやりとして、心はとめどなく萎えていく。
にやけた顔の和也。その隣で和也に寄り添うようにしながら話しかけている那奈。よく見ると、那奈の腕が和也の腕に巻きついている。
凍りついた渚は一瞬立ち止まったが、次には二人に見つからぬよう人混みの中に身を隠した。
ー何で私がこんなことをしなっくちゃならないのー
とっさにとった自分の行動に嫌気がさす。
二人の様子はただならぬ関係を思わせた。
ー何で?ー
那奈が最近彼氏と別れたことは知っている。だから、余計リアルなのだ。那奈ならやりかねない。後をつけて証拠を掴まなくてはと思うが、事実を知ることの怖さが渚を動けなくしていた。身体中の体液が波打っているような気持ち悪さに襲われる。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
見知らぬ女性に声をかけられた。
「大丈夫です」
のろのろと歩き出した渚はもう二人の姿を追ってはいなかった。
果てしなく深い孤独の沼に怯え、流したくない涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪える。
何とか家にたどり着くと買い物袋をダイニングテーブルに投げ出し、寝室のベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。やっぱり涙が出そうになる。
何も考えたくなかったのに、頭の中には銀座で見た二人の映像が消しても消しても現れてくる。なんとか着替えを済ませ、ベッドにもぐりこみ、そのまま朝を迎えた。一睡もできなかったようで、実は夢を見ていた。夢の中では、和也と付き合っていたのは自分ではなくて那奈だった。目が覚めた瞬間は、何が事実だかわからなくなっていた。でも、そのへんな夢のおかげで渚はだいぶ冷静になっていた。食欲はなかったけれど、何か胃に入れなくてはと、スムージーを作り飲むとさらに気分は落ち着いた。
幸いその日は日曜日だったので、ダイニングテーブルの椅子に座りながらこれから自分はどうすべきかを考えた。
まずは和也に電話してみる。
「おはよう」
和也の声はいつもと変わらなかった。
胸が怒りで張り裂けそうになるのを何とか鎮める。
「おはよう」
「早いね」
傍に那奈がいるのではないかという疑ってしまう。
「ごめんなさい。でも、昨日会えなかったから声が聞きたくて」
懸命に可愛らしさをまとった声を作り言ったが、はらわたは煮えくり返っていた。
「嬉しいね、ありがとう」
言葉とは裏腹に、なんとなくそっけなく聞こえてしまうのは渚の先入観のせいか。
「昨日、私、仕事案外早く終わったんだ」
「そうだったんだ。それなら連絡くれればよかったのに」
何も知らないと思っているであろう和也がのんきに答えた。
「疲れたから、そのまま帰っちゃったんだけど、和也は何してた?」
「僕は1日家にいたよ」
しらっとウソをついた。澱のように沈んでいた和也に対する憎しみ、憤りが噴水の水のように吹きあがるのを感じた。
「そうなの? だったら電話して会えば良かった」
どこまでも可愛い恋人を演じる。離しながら渚は自分の中にこうした能力があることに驚く。
「そうだよ」
「今は? 今はどこにいるの?」
電話の向こうの和也の心の中を覗き込むように言った。
「へんなことを訊くね。うちに決まっているじゃないか」
言葉遣いは平素と変わらなかったが、明らかに苛だっているのがわかった。
それはつまり、側に那奈がいるということか?
「じゃあ、今日会える?」
核心を突くことにした。
「あっ、ごめん。言ってなかったかなあ。今日母親が来るんだ」
慌てて言った和也の言葉は浮足立っていた。
怒りと憎しみと悲しみがいっしょくたになって心が壊れそうだ。
「聞いてないよ、そんなこと」
絶望を言葉に込めて吐き出す。
「そうだったかなあ。でも、そういうことだから。今度の休みに会おう」
「わかった」
そもそも和也は自宅にいる体で話していたけれど、それも本当かわからない。一方で実際に傍に那奈がいたのかどうかもわからない。
だが、事実として自分を裏切った和也も、自分の心を踏みにじった那奈も許せない。
自分の手からするりと恋が逃げていくようだ。
怒りが残ったまま、今度は那奈に電話する。だが、留守電状態になっている。その後何度も電話してみたが出なかった。
ー気がついたら電話してー
メールとラインで連絡しておく。
結局、那奈から電話が入ったのは午後3時過ぎだった。その間、渚はずっと苛立ったまま感情のやり場をなくしていた。
「あのさあ、休日の朝っぱらから何度も何度も電話入れるのやめてくれない」
いきなり怒りマックスの声でまくしたてられた。怒鳴りたいのはこっちのほうだと思いながら、渚は冷たく言い放った。
「それはすみませんねえ」
「何逆ギレしてるわけ」
人間はどこまで卑怯になれるのだろうと悲しくなる。
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、何なのよ?」
「どうしても那奈に訊きたいことがあって」
「私に訊きたいこと?」
「そう」
「ふ~ん。で、何?」
思い当たる節があるのだろう。急に不安げな声になった。
「昨日の午後3時頃、どこで何をしていたのか教えて」
電話の向こうで那奈が一瞬息をのむのがわかった。だが、すぐに平静さを取り戻していた。いや、そう装った。
「何よ、その刑事の取り調べみたいの。うちにいたわよ、ずっと」
予想通りの答えではあった。
「へえー、そう。私、その時間に銀座で那奈を見たんだけど」
「それ、人違いだよ」
「私が那奈を見間違うと思う?」
「誰だってそういうことあるよ。へんな言いがかりはやめてよね」
和也も那奈も、どこまでも白を切るつもりらしい。でも、あの時渚はパニックにはなったが、ちゃんと携帯で写真を数枚撮っていた。距離はあったが、その二人が和也と那奈であることは、着ていた洋服その他から断言できるものだった。
「言いがかりねえ。あのさあ、明日の昼休みに時間空けといて」
「何よ」
「何よじゃなくて。会ってお話したいことがありますので」
渚の乾いた言葉が那奈の胸に刺さったようだ。
「わかったから」
もっとじわじわ責めるということも考えたが、早く決着をつけたかったのだ。
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