恋のしっぽ(あの恋に会いたい)

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2-5  翌日の昼休み、食事を終えた渚は那奈に屋上で待ってるからとだけ伝え、一人先に屋上に上がった。渚と那奈は二人だけの話をする時、この屋上をよく使う。眩しいほどの強い陽射しに一瞬くらっとする。昨夜ほとんど眠れなかったせいだろう。  日陰に置かれているベンチで待つ。那奈は約束の時間より10ほど遅れて現れ、渚の横に座った。暑さのためもあるけど、隣に座った那奈に対する不快感が湧き出し、渚の額からはじわじわと汗が出てくる。ハンカチを取り出そうとした渚に、那奈が手に持っていた自分のハンカチを渡しながら言った。 「渚、ごめん」  『ごめん』と言えば許してもらえると思い込んでいるかのような言い方が渚の心をよりかたくなにする。 「何が? ごめんだけじゃわからない」  本人の口からはっきり言わせたかった。 「私、森山さんと関係を結んじゃった」  不穏な感覚で心が寒くなる。はっきり言ってほしかったけれど、こんなにはっきり言われると、それはそれで怒りの波に襲われる。自分の中で何かが縮んでいくような気がする。 「何で、何でそんなことしたのよ」  悲しみの渦の中で渚は叫んでいた。 「すべて私が悪いの」  後ろめたさをごまかすようなことはなく、どす黒い感情をすべて吐き出すように言った。そうすることで自分が傷つくことから逃げているようにも思えるが、那奈という女が根本的に持つている無常観のようなものが起こしてしまった行動だと、渚はどこかでわかっていた。しかし、それをここで認めるわけにはいかなかった。だからこそ、ここはもう一度突き放す。 「そんなこと訊いてない」 「だけど、聞いて、お願い」  渚の心の一番柔らかいところに触れてくる。 「……」 「私、村上と別れて寂しかったの。それに、やっぱり森山さんのこと好きだった。渚に譲ったけど、忘れられなかった」  那奈は経営企画室の村上というエリートと別れた。の別れた彼氏だ。だからって…。 「そんな身勝手な言い訳通用すると思う?」 「わかってる。でも、お願い、聞いて」  那奈はもう一度同じ言葉を繰り返した。 「どうぞ」  那奈に負けて渚はそう言ってしまった。 「土曜日、渚に急に仕事が入ったことは知っていたからチャンスだと思った。森山さんに電話して渚のことで話があると言って呼び出したら会ってくれたわ。銀座で会って、その後六本木にあるスペインバルの店に行った」 「ふ~ん。それで私の何を話したの?」 「別にどうってことない話しかしてないよ。会社での渚の様子とかだから。森山さんも、そんなことかっていう顔してたもの。でもお酒の量が増えるにつれて盛り上がっちゃって」 「というか、那奈が盛り上げちゃったんでしょう」 「まあね。その勢いを借りて森山さんを誘惑しちゃった」 「ひどいよね」  もはや怒りを通り越した、やりきれない哀しさに襲われる。 「私は村上と別れて辛い思いをしているのに、いつも幸せそうにしている渚が嫌だった」 「那奈、そんなのおかしいって」  那奈がそういう女だということは、前から十分過ぎるほどわかっていた。それを今回も改めて思い知ったに過ぎない。でも、それも含めて渚は那奈が好きだったと思い出した。 「そうよね。だからすべて私が悪いの。渚の気のすむようにして」 「そんなこと言われても」  いつの間にか心が鎮まり始めていた。  本当は那奈の頬を思い切り叩きたいという思いもあったけれど、そんなことしても気が晴れるとは思えなかった。 「いいのよ。殴るなり蹴るなりしてくれても」 「そんなことより、もう二度と同じことは起こさないって断言できる?」  そう言って、その日初めて真正面から那奈の顔を見た。本当は強い女なのに、一生懸命弱い女を演じているように見える那奈。  騙されてはいけないと思うけど…。 「約束するよ。本当にごめんなさい」  渚に向かって深々と頭を下げた。きっと、那奈自身、自分のことがわかっていない。渚が自分のことがわかっていないように。みんな、じぶんだけの闇を抱えている。 「もういいよ」  自分が言いたいこととは別のことを言っていた。  心をどこかへ放り出した時点で、すでにどうでもよくなっていた。  もちろん、そう簡単に割り切ることはできないけれど、とりあえず那奈を許すことにした。後は和也だった。  翌週の土曜日、渚の部屋にやってきた和也はごきげんだった。 「1週間会わなかっただけだけど、渚の顔を見られてすごく嬉しい」 「そうですか。それはありがとうございます」 「あれ? 何? その言葉遣い。機嫌悪い?」 「どうでしょう。でも今日は和也さんにお話があります」 「えっ。何か怖いなあ」  あの時、銀座で見られていたとはつゆにも思っていないのだろう。 「まっ、とにかく座って。今コーヒー淹れてくるから」  まだ立ったまま、急に不安げな顔をしている和也を残してキッチンに向かいコーヒーを淹れる。 「お待たせ」  和也の顔がよく見られるように正面に座る。 「那奈から全部聞いたから。白状したわよ、あの子」 「……」 「それに、これ」  携帯で撮った写真を見せる。びっくりしていたが、同時に観念したように見えた。 「すまない」  さきほどまでの態度を一変させ、深々と頭を下げた。  少し前まで感じていた『幸せ』が、どんどん手応えのないものになっていく。 「何で嘘をついたの? 私は浮気されたことももちろん嫌だったけど、それ以上に嫌だったのは嘘をつかれたこと」 「でも、言えないよ」 「言えないじゃなくて、私に見られたとは思わなかったから言わないまま済まそうと思ってたんじゃないの?」  自分の冷静さにたじろぐ。  考えて見れば、自分には昔からすべてのことに対して静かで頑固な諦めのようなものがあった。 「……」 「そもそも、何であんなことになったわけ?」 「仙道さんから電話があったんだ。渚とのデートがなくなって家にいたら電話があって、渚のことで話したいことがあるから会わないかって言われた。何か問題がありそうな雰囲気だったから会わなければと思ったんだ」 「まんまと那奈の罠に嵌っちゃったわけだ」 「そうだったのかもしれない」 「それで銀座で会って、その後どこに行ったの?」 「もう許してよ。仙道さんからすべて聞いているんだよね。彼女の言いったことがすべてだよ。でも、酔っていたとはいえ、一線を越えてしまったのは僕の責任だ。渚を深く傷つけてしまって本当に申し訳ないと思っている。ごめん。でも、心を入れ替えるから、もう一度やり直しのチャンスをくれないか」  謝る和也を見ていて、自分はどうしたいのだろうかと考えた。和也には思い切り裏切られ、激しいショックを受けた。いや、泣き叫んだ。でも、嫌いにはなれなかった。いや、今でも好きだ。 「わかった。でも、その分、前より愛してくれる?」  本当にそう願って言ったはずなのに、声がぽっかりと宙に浮いた。  結局許してしまう自分は甘いのだろうか。それとも、那奈や和也のほうが上手ということなのだろうか。  自分は見えないものまで見ようとしているのかもしれない。 「もちろん」
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