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2-6
いろいろあったせいで渚は、ちょっとしたことで負の感情に支配されてしまうことがあった。自分たちが向かっているのが出口なのか入り口なのかさえわからなくもなった。それでも、時間ははらりはらりと過去へと落ちて行き、悲しみの通り道を開けた。気がつくと、いつの間にか和也との付き合いが渚の恋愛史上1番の長さになっていた。そして、渚の和也に対する思いが、グラデーションのように次第に濃くなった時、ついに待ち望んでいたプロポーズを和也から受けた。
その日に限って、和也はデートに車を使わなかった。渚のマンションまで迎えに来た和也がいつもより笑顔が少なかったのは緊張のせいだったと後で知った。映画を見た後、レストランで食事をしている時も会話が少なかったので、渚の胸の中では一瞬暗く痛い記憶が蘇った。だが、和也の瞳の底に水のような透明な炎が揺らぎたったのを見て、渚は今まったくの勘違いをしていることに気づいた。
渚のマンションに一番近いバス停で降り歩き始めると公園が見えた。
辺りには静寂が空気のように満ちている。
夕日の落ちる音が聞こえる。
木立のおかげで風がいくらか和らいだ。
黒い小さな鳥が飛び去った。
公演は夜の底に沈む準備を始めていた。
「公園に入ろうか」
和也の声は若干軋んでいた。
「うん。いいよ」
奇妙な息苦しさを感じながらも渚は努めて明るく答える。
砂場の前の古びたベンチに並んで座る。
和也の緊張がさざ波のように渚に伝わってくる。
「渚」
柔らかいけれど、長い旅に決着を着けるかのような力を込めた声だった。
「ん? 何?」
渚を見つめる和也のけなげな視線に出会う。
「僕と結婚してくれないか」
たくさんの無駄な言葉を省いた、でも、あまりにドストレートな言葉だった。心の中には温かいものが流れ、鼻の奥が熱くなった。少し前からそういう雰囲気は感じていたけれど、実際に告白されるとやはり嬉しかった。
「はい」
「OKなんだね」
「うん」
「嬉しい」
和也の声が丸みを帯びている。
心底ほっとしたような和也の胸に顔を埋める。
「幸せになろうね」
幸せにするではなくて、幸せになろうと言うところが和也らしくて良かった。
ただ、渚には一つだけ不安があった。和也は有名な飲食チェーン店の社長の家で生まれている。なので、森山家の人たちが自分のことを受け入れてくれるのかがわからなかった。そのことを和也に伝えると、和也は笑って答えた。
「心配しないで。渚は森山家と結婚するわけじゃなくて、僕と結婚するんだから」
「それはわかってる。でも…」
「それに、会社のほうは兄が継いでいて、僕は自分の選んだ研究の仕事をすることを家族も認めてくれている」
和也の答えは自分の不安と少しズレている。
「それは和也と森山家の関係よね。私が不安に思っているのは、私が和也の相手としてふさわしいと森山家の人たちに認めてもらえるかということ」
万が一にも自分のことが原因で、和也が森山家の家族から浮いた存在になってほしくなかった。
「ああ、大丈夫だよ。すでに両親にはだいたいの話はしているし。でも、僕が渚のご両親とお会いしてお許しをもらうのが先じゃない」
「うち?」
渚の両親が文句をつけるはずもなかった。和也の経歴、職業、両親の家系、それに和也の容姿、どれ一つとってもケチのつけようがなかったから。
「うん」
「うちのほうはまったく問題ないわ。いつでもOKよ」
「そう。じゃあ、日程決めて」
もちろん、渚の家では和也を大歓迎した。和也が両親に結婚の意思を伝える前に、父親のほうから娘をよろしくお願いしますと言っていた。予想通り何の問題もなく終わった。
やはり気になるのは森山家の人たち。和也はああは言っていたけれど、渚にとって森山家のハードルは高いように思えた。和也に連れられてお屋敷のような森山家の門をくぐった段階で、渚は胸が苦しくなった。
「どうしたの、渚?」
「緊張してきた」
「大丈夫だから、渚」
そう言って和也が渚の肩を抱いた。
「うん」
お手伝いさんの後について両親の待つリビングへ入る。
「よくいらっしゃいました」
父親がにこやかな顔で迎えてくれた。さすが客商売の事業の社長だ。心の中はどうかわからないが、接待に卒がない。同じく笑顔の母親は美人な上に品があったが、もろく危うげで人形のような不可思議さがあった。和也は母親似なのだろうと勝手に思い込んでいた渚だったが、どうやら和也は父親似のようだ。その真の理由は後に知ることとなる。
すでに和也から話が伝わっていたようで、渚の心配は杞憂に終わった。和やかな雰囲気の中で、和也が渚のことをエピソードを交えて紹介してくれた。
「今日は和也さんの妹さんはいらっしゃらないのですか?」
すっかりリラックスした渚がそう訊いた時だけ、あれほど自信満々だった父親の瞳の中が頼りなげに揺れているのがわかった。訊いてはいけないことを訊いてしまったのだろうか。そう思ったが、後の祭りだった。
「娘は今日どうしても外せない仕事で来られなかったんですのよ」
母親のほうがとりなすように言ったが、この言葉は渚の感覚をぴんと弾いた。
「そうでしたか」
「しかし、最近ママ、ゴルフ行けてないんだって」
和也が場の空気を読んで話題を変えてくれた。こういうところも和也のいいところだ。最後は父親の息子をよろしくという言葉で終わった。
「和也、ごめんね」
「ん?」
「妹さんのこと訊いちゃって」
「いや、問題ないよ。父親と妹は昔から合わないんだよ。というか、妹のほうが一方的に嫌ってるだけなんだけどね。でも、お互い認めるところは認め合っているから問題ないさ」
「そうなんだ」
「親子って、いろんな関係があるじゃない。僕はそれぞれでいいと思ってるんだ」
「そう言われればそうね」
「それより、両親ともすっかり渚のこと気に入ってたね。特に父親のあんな嬉しそうな顔を久しぶりに見たよ。むしろ、渚に感謝だよ」
「そう。それならいいけど…」
やはり渚は妹のことがひっかかっていた。和也の説明を聞くことで、いったん渚の心の中に生じたさわめきは消えるどころか、むしろ大きくなっていた。
「どうしたの? 浮かない顔しちゃって」
「ううん。何でもない」
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