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2-7
渚が森山家を訪れた1週間後、和也から妹に会ってほしいと言われた。
「妹への連絡が一番遅くなってしまったんだけど、そうしたら怒られちゃってさあ」
「何で妹さんが最後になったの?」
「それはたまたまだよ」
本当にそうだろうか?
一番話しにくかったためそうなったのではないか。
「そうなの」
「だけど、妹が怒ってるのは順番じゃないんだ」
「じゃあ、何に怒ってるの?」
「結婚を決める前に渚に会わせなかったことを怒ってるんだ」
形にならない何かが渚の脳裏をかすめる。
「なんか怖い」
思わず出てしまった。本来なら『怖い』は当たらないところなのだけど、感覚的にそう感じてしまったのだ。
「怖い?」
妹を否定されたと感じたのか、和也は心外という顔をした。
「だって、妹さんのお眼鏡にかなわないと結婚を許されないみたいで…」
喉の内側が腫れあがっているかのように息苦しい。
「そういうことじゃなくて、単純に事前に紹介してほしかっただけだと思うよ」
「そう…」
まだ妹には会ったこともないけど、違う気がした。
「会ってくれるよね」
和也が有無を言わせない口調で言った。攻撃的にさえ感じる言い方に、渚は違和感を感じた。だが、もちろん、断るわけにはいかない。それに、どちらにしても会わなければならない人なのだ。
「ええ。もちろん、お会いしたいと思うけど」
「じゃあ、今度の日曜日にしよう。その日なら妹の予定がとれるらしいから」
渚の予定を訊くこともなく、妹の予定に合わせようとしている。身体の表面の感覚が鈍って軽く浮き上がるように感じた。自分がこれまで信じていたはずの和也の自分に対する愛情に警鐘が鳴らされている、のではないか。
「わかったわ」
渚は自分の感情を悟られぬよう、いつもと変わらぬ声で答えた。
当日、和也に連れて行かれたのは、青山にある妹の事務所だった。100坪以上あろうかと思われるその事務所には、10人程度の人が働いていた。25歳という若さで、こんな大きな事務所を持てていることに驚く。恐らく父親の力も利用しているのだろう。一番奥にある個室のドアを和也がノックすると、中から聞いていた年齢からは想像できないほど落ち着いた声がした。
「どうぞ」
「入るよ」
和也について部屋に入る。こちらに向かって立っている女性の姿が目に入った。彼女は一瞬で渚の全身を舐めるように見た。目が大きく、目元もきりっとしていて、鼻も高い典型的な美人だったが、にこりともしていない。冷ややかで硬質な、研ぎ澄まされたようなその美しさは、渚の感覚のすべてが吸いあげられてしまうような恐ろしさを感じた。ただ、その美貌は先日会った和也の母親によく似ていた。
「初めまして、私、松宮渚と言います」
妹は何も言いそうになかったので、自分から先に挨拶した。
「妹の絵梨香です」
なぜか和也が答えた。しかし、その妹は謎めいた表情でずっと渚のことを見つめたままだ。その圧倒的な美しさに気圧されることのないよう、渚も絵梨香を見つめ返す。
「絵梨香」
なおも黙っている妹に和也が注意する。
「ん? 何?」
「彼女を紹介しろというから連れてきたんだから、ちゃんと対応してくれよ」
「そうよね。どうぞお座りください」
他人事のように冷めた声で応接セットを指さした。渚と和也が並んでソファーに座る。絵梨香は机の上の受話器を取り、内線でコーヒーを持参するように指示した後、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。この時、渚は絵梨香が左足をわずかに引きずっているのを見逃さなかった。
「お綺麗な方ですね」
渚に向かって言っているのだが、何の感情込められていない言葉は無意味な音でしかない。いや、むしろ酷薄さすら感じられる。
「いえ、そんなことないです」
渚は絵梨香ではなく、その後ろの絵梨香の机の上を見ながら答える。そこには、渚と和也が並んで映った写真が1枚置かれていた。
「あなたでしたか、兄と結婚したいという方は」
胸の扉を無遠慮にノックするような言い方だった。
『結婚したいという方?』
いったい和也は自分とのことを妹にどう話しているのか?
結婚することはすでに決まっていると知らないのか?
しかも、和也はなぜこの絵梨香の発言を否定しないのか?
疑問符だらけになっている渚の横で、和也はまるで言葉を奪われたように固まったまま何も言わない。渚をカバーしようという気配も見せない。
マックスに達した鈍重な苛立ちを抑えて答える。
「結婚したいということではなくて、結婚することは決まっているんですけど…」
すると、妹の絵梨香はちらっと和也を見た。それは渚の言ったことは本当かと、和也に目で確認しているようにも見えた。
「そうだよ…」
悪だくみを見つかった子供のような不機嫌さを露わにして和也が答える。
自分の愛した男の、あまりに軽い言葉に、嵐の空みたいに心の中が真っ黒になる。
「あら、そう。まあ、いいわ。確か渚さんでしたよね?」
今頃になって当然事前に知っていたであろう名前をわざとらしく言う。
「ええ、そうです」
「渚さんは、私と兄の関係をご存知なのかしら?」
艶めかしさすら感じられるように言い放った。
「お二人の関係って?」
この人は何を言い出すのだろうか。胸の中がざわつき、訊くのも空恐ろしい気がしたが、ここまでくれば訊くしかない。渚も開き直っていた。
「私と兄は血が繋がっていないということ」
まったくの予想外だった。だが、この言葉を聞いてすべたが繋がったような気もした。
これまで和也は絵梨香のことをほとんど渚に話してこなかった。敢えて避けていたようにも思える。そのことを恵梨香もわかっていて、自分が異母兄弟であることを渚に伝えるために今日ここにを呼んだ。そんな気がしてきた。
「知りませんでした」
「やっぱりね」
絵梨香は再びちらっと和也を見て続けた。
「つまり、私と兄は恋愛関係にあってもおかしくないっていうこと」
「やめろ」
和也が絵梨香に向かって低い声で唸るように言った。しかし、それは絵梨香の話を遮るものであって、話を否定するものではなかった。
「どういうこと?」
絵梨香に確認しても埒が明かないと思い、和也に向かって訊く。
「確かに、絵梨香とは血が繋がってはいないけど、何もないから」
和也は否定したけど、この二人の間には何があってもおかしくないような空気があった。
「あら、それはどうかしらね」
和也がムキになって否定したのを、絵梨香がまた曖昧な状態に戻した。
「絵梨香、いい加減にしろ」
和也の強い口調に恵梨香は急に怯えた表情を作り和也を見ている。
「ごめんなさい。嘘をついちゃった。お兄ちゃんがこれまで連れてきた人の中で渚さんが一番綺麗だったから嫉妬しちゃったの」
そう言われて和也の顔が少し緩んで無防備になった。
そのことが渚には許せなかった。
絵梨香は謝ってはいるけれど、それは和也に対してであり渚に対してではない。しかも、それは、和也に甘えている素振りをわざと渚に見せつけているようにさえ見えた。渚は血の繋がっていない兄と妹の間で交わされた生々しく怪しい感情のやりとりに嫉妬していた。
二人の関係が実際のところどうかはわからないけれど、一つだけはっきりしたのは、妹の絵梨香は異常に和也のことが好きであるということだ。
「絵梨香、わかったから、もうそのへんにしてくれないか」
『わかったから』と言った和也が信じられなかった。わかるはずもないことであったから。
「うん」
絵梨香の返事の後、和也はようやく私のほうを見て、私が呆れ果てた顔をしていることに気づいた。
「渚、ごめん。もう帰ろう」
和也に手を取られ部屋を出る。怒りと、あまりに多くの疑念と、果てしない失望が入り混じり、渚は森の奥に取り残された沼のように茫然自失状態になっていた。幸せと不幸せはいつも隣り合わせと言われるけれど、心はとめどなく萎えていく。
絵梨香の事務所が入るビルから外に出た瞬間、渚の目から涙が零れ落ちた。絵梨香の事務所にいる時に案外冷静でいられたのは、あの女(絵梨香)に負けまいと踏ん張っていたからに過ぎなかった。ただただ訳もなく悔しい。和也にも、自分にも。
すでに和也のことは眼中になかったが、そんな渚に和也が話しかけてくる。
「渚、すまない。あんなことを言い出すとは思わなかったんだよ」
「悪いけど、今日は一人にして」
自分一人になって考えるべきことがいっぱいあった。まだ追いかけてこようとする和也を置き去りにして渚は駅までの道を走った。
絵梨香の出現で、和也に対する信頼は地に堕ちた。このままではとてもではないけど、結婚などできない。
感情のバランスを崩した渚は、心の底に降り積もった得体の知れない思いを抱えながら空虚な時間をやり過ごしていた。日々の時間に病巣が深く根をはってしまっている。
和也は毎日何度も何度も電話を寄越し、メールやラインも山ほど送られてきたが一切無視した。長い長いトンネルの中で、次第に冷静になった渚が見つけたものは、やっぱり和也のあの爽やかな笑顔だった。どうしようもない弱さを持った和也を支えられるのは自分だけだと思いたい。1週間考えた後、渚は和也と会って話し合うことにした。結論は、その時の感情で決めることにした。
「この間はごめん。でも、何で僕からの連絡を無視したの。ちゃんと説明したかったのに」
まっすぐな目をした和也に言われ、渚の心の中に溜め込んだものが腐り出した。和也も弱い男だけど、自分も弱い女だと実感する。
「あんなことがあって、私が普通でいられると思う? 正直、あなたの顔を見るのも、声を聞くのも嫌だった」
「そうか…。そうだよね」
「そもそも、妹さんのことを事前にちゃんと私に話してくれれば良かったのよ。何で話してくれなかったの?」
「その点については渚の言う通りだね。僕が悪かった。本当にごめん。ただ、僕としては、妹と血が繋がっていないことを言ったら誤解されるんじゃないかと思って言い出せなかったんだ。何せ、ああいう妹だから」
「でも、そんなこといずれわかっちゃうことでしょう」
「そうなんだけどさあ…」
ひょっとして和也はでき得るならずっと隠しておくつもりだったのか?
ただ、実際に絵梨香という女性に会ってみて、和也の言うこともわからないではなかった。絵梨香には人を暗い沼へと引き込む墜落感のような不吉な空気を纏いつけていた。
「確かに、妹さん変わっているわよね。きっと、和也のことが本当に好きなんだと思う。だから、和也をとられたくないのよ」
「う~ん」
「そこは和也も気づいていたんでしょう」
「まあね。ただ、絵梨香はもともと変わったところがあって、突拍子もないこと言い出したり、わけのわからない行動をとったりして家族を困らせていたんだよ。だから、絵梨香の本心がどこにあるか正直わからないところがあるんだ」
「そう…」
「それと、渚も気づいたと思うんだけど、左足のこと」
あの日、渚が絵梨香の左足の動きを見ていたのを和也は気づいていた。
「あっ、うん」
「あれは、絵梨香が母親と一緒にわが家にやってきて間もなく起きてしまった不幸な事故のせいなんだけど。それ以来、絵梨香の精神が不安定になってしまったんだ」
「そう。事故って?」
「それはおいおい話すよ」
「わかった」
本当はこの場で訊きたかったが、話すのが辛そうだったので引き下がった。
「だから、絵梨香を許してほしい」
今日和也に会う前までは結婚の解消も考えていたが、どうやら自分の思い過ごしもあるようだったので思いとどまることにした。
「うん」
「それに、この間のことは、絵梨香もすごく反省していて、渚にちゃんと謝りたいって言ってる。それと、二人をちゃんと祝福したいって。僕たち結婚すれば、今後とも絵梨香とそれなりに付き合っていかなくちゃならないんだし。渚はあまり気乗りしないかもしれないけど、もう一度絵梨香に会ってほしい」
「う~ん、わかったわ」
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