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1-4
確実な別れが待っているということが、一つひとつのデートが、いや、デート中の一つひとつの出来事が、甘酸っぱい果実のような香りを放っていたように思う。当時の思いは、今でも自分の内側に溶け込んでいる。
そんな中、二人は心を潰されるかのような圧迫感でお互いの夢を語り合った。
「葵はどうしてアイドルになりたいと思ったの?」
「私、家庭の事情があってずっと悩んでいたの」
思っていたのと違う答えが返ってきた。
「家庭の事情?」
「うん」
葵のか細い声が風に吸い込まれていく。
「訊いていい?」
夕焼けが舞い下り始めていた。
「ごめん。話したくない」
「わかった」
「死にたいと思ったこともある。心も体もボロボロだった」
淡々と話す葵の言葉の形を確かめようとするが、竜也には見えない。あまりにも重い言葉なのに、どこか頼りなく、まるで葵の放った言葉ではないような気さえした。
葵のことは小学校の時から知っているけど、そんな素振りを一切見せていなかったので知る由もなかった。でも、当時の葵が死ぬことまで考えていたと思うと自分の心も張り裂けそうになる。
「そんなことがあったなんて…」
透明感のある葵の顔を見ているだけで涙が出てしまった。
「泣かないで。昔の話だから」
「でも…」
「そんな私を救ってくれたのが真鍋マユさんの笑顔と、あの優しい歌声と歌詞だったの。自分も生きていていいんだと思えた」
真鍋マユというシンガーソングライターのことだ。その歌唱力から、今ではミュージカルにも多数出演している人気歌手だ。最近は作詞も手掛けていて、その歌詞が若者の心をつかんでいる。
「そうなんだ…」
葵の手の上にそっと自分の手を置く。その手を葵が握ってきた。
「だから、そういうアイドルになりたいの」
まなざしはひたむきで、でも美しいほどに輝いていた。
「そうか。大丈夫。葵なら絶対なれるから」
「うん。頑張る」
「アイドルになれたらどんなことがしたいの?」
「やりたいこと? いあっぱいあるよ」
「たとえば?」
「いつか武道館とか東京ドームとか横浜アリーナみたいな大きな会場でライブをやってみたいし、大好きなおじいちゃんのために紅白歌合戦にも出たい」
葵はいつも葵の味方だというおじちゃんが大好きだという。
「わかる。KーPOPアイドルの道は考えなかったの?」
「もちろん考えていたよ。スカウトされなかったら韓国に行っていたかもしれない」
「ということは、日本だけじゃなくて世界で活躍したいんだね」
「それはそうだね。まずは日本で活躍したいけど、その先には世界も考えているよ」
目をキラキラとさせながら自分の夢を話す葵の姿は、傍で見ていてもうっとりするほど美しく、愛おしさが胸の奥からあふれた。竜也は葵が舞台で輝いている姿を想像するだけで幸せだった。
「竜也の夢は?」
「僕の夢はアメリカの大学に留学してMBAを取得して、アメリカで起業することなんだ」
「竜也頭いいもんね」
「ありがとう。でも、今の倍くらい勉強しないとダメなんだけどね」
「そうかあ。大変だね」
葵はそう言ったけど、本当は葵の選んだ道のほうが大変なのは間違いない。自分の夢の成否のほとんどは自分が決められる。自分さえ、その努力を惜しまなければ可能性は見える。でも、葵の夢は自分だけではどうにもならない部分が多く含まれている。事務所の力そのものもあるだろうし、事務所の力の入れ具合だったり、ライバルとのし烈な競争だったり、運だっり。その分大変だろうし、可能性も不確定になる。それは本人もわかっている。だから、夢が大きい分、揺らめきも大きいようだった。時々、精神状態がひどく不安定になることがあった。
その日は葵が観たいという映画に二人で出かけた。ただ、その日、葵は学校でも元気がなかった。映画を観るのをやめても良かったのだけど、行くというので出かけた。帰りに公園に寄った。
凛と澄んだ空気の中で風が吹き、葵のしなやかな髪の流れが鼓動を打っている。
ベンチに座った葵が感情のバランスを崩したのか、突然泣き出した。
「どうしたの?」
「私、自信ない」
話を聞くと、事務所に呼ばれて東京へ行った際、デビュー予定の数人のレッスン風景を見て自分の力不足を知ったということだった。
「何もそんな風に思わなくてもいいと思うよ。スタートの時期は人によって違うと思う。葵の場合はまだ何も始まっていなんだよ」
竜也にできることは、ただ励ますことだけ。
「そんなのわかっているよ」
葵のこの言葉を聞いて、竜也は葵のために少し踏み込んだ意見を言うことにした。
「でもね。僕は葵にはもっと強くなってほしい。葵の目指す夢の世界は僕が歩もうとしている世界よりもずっと厳しいと思う」
「きっとそうだろうね」
葵もそれはわかっているのである。
「夢を叶えることができるかどうかは夢への思いの強さだと僕は思う。特に、葵が目指すような常にライバルのいる世界ではね。人より少しでも強く夢への思いを持った人のほうが夢を自分のもとへ引き寄せることができるんじゃない?」
もちろん、自分自身に対して言っている言葉でもあった。
「竜也の言う通りだね。泣いている場合じゃなかった」
「生意気なこと言ってごめん。でも、僕は葵に確実に夢を叶えてほしいんだ。だから…」
話しているうちに竜也自身感情が高まった。
「わかってるって。ありがとう。私のためにそこまで考えてくれるのは竜也だけだよ」
「僕、葵のこと愛してるから」
好きと言ったことはあるけれど、愛してると口に出したのはこの時が初めてだった。
当時の自分がどれほど言葉の意味をわかっていたかは疑問だけど、「好き」という感情をはるかに超えていたことは確かだった。
「とっくの昔に好きを超えちゃってるんだ」
葵の横顔にかかる柔らかな髪をみながら言った。
遠くのほうでブランコの軋む音が聞こえる。
公園の中のベンチに座る二人に、夕焼けが落ちて来た。
「ありがとう。私も同じよ」
「そう。嬉しい」
「私、竜也と出会えて幸せだったよ」
葵の笑顔は瑞々しい桃の果実のようだった。
この数か月の時間の流れが特殊な道筋を持った
「ええー、そんなあ。照れるじゃないか」
「さあ、いくよ」
葵が急にベンチから立ち上がり、手を出した。
その手を、おずおずと握り歩き出す。
この出来事が、いつか思い出に変わるとわかってはいたけれど、この場所に自分の一部を置いておきたいという思いが強かった。
葵の東京への旅立ちの1週間前に、葵が理想と言っていたデートをすることになった。
彼女がどうしても自分としたかったデートは、毎年夏に行なわれる地元の花火大会に浴衣姿で行くというものだった。それを聞いた時、わりとありきたりのデートだなと思ったが、実は違った。
当日、待ち合わせ場所に行った竜也が見た葵の浴衣姿は眩しかった。とにかくきれいだった。もともと大人びた顔をしていた葵だったけど、髪をアップにした葵は、一人の大人の女性に見えた。それに引き換え、自分が子供っぽく思え恥ずかしくなった。
「綺麗だね」
薄く化粧を施した葵には色気さえ感じてまともに見られない。
「ありがとう。竜也もかっこいいよ」
「そうか? でも、僕自信ないよ。葵と釣り合ってないんじゃないかって」
「大丈夫、そんなことないから、自信もって。私が選んだ人なんだから」
「ありがとう」
「じゃあ、行こう」
そう言って、当然のように手を出した。それがものすごく自然だったので、竜也も自然にその手に自分の手を絡めることができた。でも、心臓の鼓動は止まらなかった。もちろん、葵と手を繋ぐのは初めてではなかったけれど、竜也はその都度緊張する。葵はつないだ手を確かめるように見て嬉しそうな顔をした。
「竜也と一つになれたね」
「うん」
「竜也、今何を考えてる?」
「この時間が永遠に続けばいいなって」
「ふふ。竜也って、ロマンチストだね」
「本当にそう思ったんだよ」
ちょっとムキになったしまった。
「ウソだなんて言ってないよ。でも、そういうところ、好きだよ、私」
「なんか照れるなあ。あれ、こっちでいいの?」
葵に手を引っ張られる形で歩いていたが、途中からみんなが向かっている方向とは別の道に入っていた。
「いいの。黙って私について来て」
葵の秘密めいた言い方に胸が高まった。葵が理想のデートと言った理由はきっとここにあると思った。いつの間にか周りに花火客はもういなくなっていた。
「こっちこっち」
葵が連れて行った場所は、岩場の中に自然の力で偶然できた窪みのようなところで、ちょうど二人ぐらいが入れる秘密基地のような場所だった。
「こんなことろ、よく見つけたね」
「子供の頃、遊んでいる時みんなとはぐれてしまったの。その時、偶然見つけたのよ。でも、誰にも教えなかった。それからは、辛いことがあった時や一人で考えたいことがある時に来てた」
「そうなんだ」
「それでさあ、花火大会の時にも来て見たら特等席だってわかったの。だから、いつか好きな人ができたら、ここで二人だけで花火を見たいって思ったの」
「そうか。嬉しい」
風に葵の髪がなびく。
その度に甘い香りが竜也の鼻腔をくすぐる。
葵の秘密基地は、花火の打ち上げ場所から遠からず、かといって近すぎないところで絶好のデート場所だった。
「花火、もうすぐ始まるよ」
葵が時計を見ながら言う。
「そうだね」
その時だった。1発目の花火が打ち上がった。それを契機に花火の饗宴が始まった。
「きれい」
夜空を彩る幻想的ともいえる花火の美しさに、葵が声をもらした。
「いつか、どうしても会いたくなったら会いに行ってもいいかな」
花火と花火の合間を見つけて竜也が言うと、葵は困ったような顔をして答えた。
「夢が叶うまでは駄目。竜也に会ってしまったら決心が揺らいでしまうかもしれないから」
「そうだよね。ごめん。僕のわがままだった」
「ううん。私、意思が強そうに見えて弱いところがあるの。だから。もし、夢がかないそうになったら、私のほうから連絡するからね。その時は会おう」
「約束だよ」
「うん。指切りしよう」
再び花火が始まった。葵はああ言ったけれど、きっと連絡するつもりはないと、そんな気がした。
「ねえ、葵」
「ん?」
「お願いがあるんだけど」
「何?」
「歌を歌ってくれないかな」
「いいよ。竜也のためだけに歌ってあげる」
今自分たちがいる場所は花火の打ち上げ場所からは程よく離れていたため、音はそれほど聞こえなかった。だからこそ、ずっと考えていた思いを葵に伝えた。
「リクエストしていい?」
「私が歌える曲ならいいよ」
本当は葵が好きだという真鍋マユの歌にしようかと思ったけど、どちらかといえば、真鍋マユの歌う曲はポップなものが多かった。なので、今の竜也の心境、心情に近い曲を選んだ。
「Uruのあなたがいることで」
「わかった」
「歌える?」
「大丈夫よ。私も大好きな曲だし…」
「今の僕の心境、心情に近いんだよね」
それに、葵の澄んだ声質がぴったり曲に合うこともわかっていた。
「そう…、かもね。わかった。じゃあ、歌うね」
「お願いします」
葵がまっすぐ前を向いて歌い始めた。
どんな言葉で
今あなたに伝えられるだろう
不器用な僕だけど
ちゃんとあなたに届くように
明日が見えなくなって
信じることが怖くなって
過去を悔やんでは責めたりもしたけれど
僕を愛し続けてくれた人
もしも明日世界が終わっても
会えない日々が続いたとしても
僕はずっとあなたを想うよ
あの日僕にきれたあなたの笑顔が
生きる力と勇気をくれたんだ
星が見えない 孤独な夜でも
あなたがいる ただそれだけで
強くなれる
Uruさんの歌う「あなたがいることで」も、もちろん好きだったけど、竜也にとっては葵の歌う「あなたがいることで」は特別だった。
歌詞の一言一言が竜也の心に突き刺さる、心を揺さぶる。その歌詞を最適の音で表したすばらしい曲を葵の瑞々しい声が静かに、だけど魂を乗せて歌う。歌詞、曲、歌声が一体となって竜也の胸の奥深くに沁み込んでくる。言葉にならない感動が押し寄せ、鼻の奥が熱くなる。目の前の景色がふくれあがり、ゆらゆらと揺れている。
遠くに見える光の華ですらただの背景となり、夜の静寂の中で葵の歌声だけが竜也をすっぽり包んでいる。世界が温かな色に塗り替えられていくようだった。
自然に涙が零れた。
最後の歌詞にさしかかった時、葵の声もほんの少し揺らいだが、歌い切った。
葵が控え目な目を竜也に向けながら言った。
「泣いてるの?」
「うん」
「そういう葵の目にも…」
「うん」
「葵、とっても素敵だったよ。一生の思い出をありがとう」
「ううん。私こそ、聴いてくれて嬉しかった」
今回離れ離れになったらきっと二度と会えない。その後も竜也は花火を見るふりをしながら、ひたすら葵の美しい横顔を見て自分の目に焼きつけていた。
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