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1-8
土曜日は朝からしとしとと雨が降っていた。昨夜は封印していた思い出が影絵のように浮かび、なかなか寝付けなかった。雨に潤んだ道路を、百合と駅へ向かう。近づいてくるバスが水蒸気のせいでゆらゆら揺れて見える。
葵の母親の住まいは吉祥寺にあった。葵の母親の家に向かう電車の中では、自然と葵の話題になる。
「葵に会えるといいね」
百合が竜也に顔を近づけて言う。甘くやるせない微香がする。浮かびかけた思いを意識の片隅に追いやる。
「お母さん、葵の居所を教えてくれるかな?」
「何か特別な事情でもない限り教えてくれるんじゃない」
「特別な事情って?」
「たとえば、自分の夢を叶えられなかった葵が会いたくないと言ってるとか」
「なるほど。あり得るなあ」
プライドの高かった葵なら、確かにあり得た。
「でも、大丈夫だよ。きっと会えるよ」
何の根拠もなかったけれど、励ますように言ってくれた百合の優しさに感謝する。
吉祥寺駅に着き、徒歩で葵の母親の住むマンションに向かう。すでに雨は止んで、雲の透き間からあやふやな太陽が顔を出していた。
波紋のように広がる期待と不安。
奇妙な息苦しさに、胸がざわっとする。
「あっ、あそこよ」
百合が地図を見ながら小さな公園の先に立つ中層階のマンションを指す。建物の横に書かれたマンション名を見ると間違いないことがわかった。エレベーターで5階に上がり、502号室の前でインターホンを押す。
「はい」
「先日連絡しました松本竜也です」
「お待ちしておりました。今ドアを開けますね」
しばらくしてドアが開き、中年の女性が顔を出した。子供の頃に会っていたであろうけれど、はっきりとは思い出せない。あまり葵には似ていないように思えるのは、単に時間が経過しているせいだろうか。
「どうぞ、お入りください」
竜也と百合が通されたのは、女性の部屋らしからぬ、ひどく無機質な佇まいだった。必要な家具はすべてあり、しかもその一つ一つはおしゃれなのに、どこか来客者を拒絶するような冷たさがあった。昼間なのに、LEDがのっぺり白い光で部屋を照らしている。
「すっかりご無沙汰しております。私、蓮沼百合です」
百合が自分から名乗った。
「さっきから気づいていましたよ。当時は葵と仲良くしてくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ。今日は松本君について来てしまいましたけど、よろしくお願いします」
「はい。とにかく、お二人ともお座りください」
持参した土産を渡し、ソファーに座る。母親はいったんキッチンに消え、飲み物を持って再び現れた。竜也の前にはコーヒーが置かれ、百合の前には紅茶が置かれた。
「葵から竜也君はコーヒーが好きだけど、百合ちゃんはコーヒーが苦手で、いつも紅茶を飲んでいるって聞いてたから」
「覚えていてくれたんですか」
百合が感激しているのがわかる。
「あの子に関することは覚えているわ。それで、その葵のことが知りたいのよね」
「そうです」
「どこから話したらいいのかなあ」
そう言って母親は天を見上げるようにしてから話を続けた。
「葵がアイドルになりたくて東京に出たのが13歳の時。芸能事務所の宿舎のようなところに住みながら、芸能部のある学校に通い始めたのはお二人とも知ってるわよね」
「ええ、そこまでは葵ちゃんから聞いてました」
百合が懐かしそうに言う。
「通学しながら事務所の養成所で歌やダンスや演劇のレッスンを受けていたの。だから、デビューはだいぶ先かなと思っていたんだけど、半年後に軽い気持ちで受けたガールズグループのオーディションに受かってしまったのよ」
「すごい。さすがは葵ちゃん」
ここでも百合が反応した。
「おかげさまで。それで、事務所としても後押しするから、お母さんも東京へ出て来てサポートしてくださいと言われて、私も上京したわけ」
母親は当時を思い出したのか、嬉しそうな顔をした。
「今思い出しました。その話は葵ちゃんから聞いたような気がします」
きっと百合には連絡したのであろう。竜也は葵がガールズグループの一員になっていたことも、その葵をサポートするために母親が上京したことも今初めて聞いた。
「百合ちゃんには話したのね」
「ええ」
当時を思い出したのか、百合まで嬉しそうだが、自分だけ蚊帳の外のようで竜也は少し寂しかった。
「実は当時私たち夫婦はうまくいってなかったから、私としても東京に出る理由づけができて歓迎でした。葵が入ったガールズグループはそれなりに注目されてファンもつき始めていました。ただ、全員まだ学生だったため活動は制限されていましたけどね。学校、事務所でのレッスン、アイドルとしての活動すべてをやるのは大変だったと思いますけど、葵は心底楽しそうでした。なので、私も葵の夢にすべてを捧げようと決心したの。私にはそうしなければならない理由があったからでもあるんですけど」
「理由ですか?」
すごく気になったので竜也が口に出した。
「ええ…」
だが、母親はすぐには話さなかった。
眉根を寄せ、一瞬空洞のような無表情になった。
何かに必死に耐えているようでもあった。
足元が沈み込んでいくような疑問に心が不安になる。
母親が見せた表情はこれから話されることが聞く者の心を暗く閉ざすようなものであることを示していた。
「葵は…、葵は、実の父親である私の夫に性的暴力を受けていた時期があるのです」
脳味噌の中を走っている無数のか細い神経が一斉に痙攣を引き起こした。ざらついた感情が胸の内に滾る。自分の思い出までが土足で汚されてしまったような気持ちになる。
百合の身体がショックのあまり、小刻みに震えている。同じ女性である百合だからこそ、実の父親から性的暴力を受けるということの惨さを感じとってしまったのだろう。
竜也はあの時葵から聞かされた『死にたいほど苦しんだ』という言葉の真意をここで知ることになった。父親に対する激しい怒りと憎しみで心の中が黒く染まる。今さらながら葵が果てしなく深い孤独の沼に怯えていたことに、涙もなく慟哭する。
「葵が恐怖で言えなかったのに、私がすぐに気づいてあげられなかったんです。どれほど後悔しても後悔し尽くしきれないことでした。そんな夫とうまくやれるはずもありませんよね。私はすぐに夫に離婚を迫りましたが、夫はなかなか受け入れませんでした。なので、私は葵のこともありましたので、一人で東京に出て、それからは弁護士を入れて進めるようにしたのです。それでも、思うように離婚の話は進みませんでした。それは、夫の葵に対する執着が強かったからです。夫も私たちを追って東京に出てきましたので、そのタイミングで、双方の弁護士同士で協議を重ね、ようやく離婚にこぎ着けました。夫ももともとは理性的は人です。ようやく気付いてくれたということです」
「そんなことがあったとは知りませんでした」
何も言えずにいた竜也に代わり、百合が答えてくれた。
「葵も、私も誰にも言えませんでした」
葵の父親の葵に対する異常な愛情のことは、百合の父親の話として聞いていたが、他人の目から見てもそう思える状態だったことに驚愕する。研ぎ澄まされた心がとらえようとしているのは虚空に浮かぶ真実だ。
「夫の問題が解決したので、葵のサポートだけを考えました。正社員になってしまうと融通がきかないと思ったので、パートの仕事をしながら全力を注いでいました。幸い、葵の属するガールズグループの認知度も徐々に上がってきて、事務所も本格的なプロモーションを始めてくれた時でした…」
突然言葉が途切れ、母親の顔が歪んだ。
いくつもの異なる感情が交錯しているようだった。
やがて、身体が震え出した。
黒々とした不安が立ち昇る。
葵に何があったというのだ。
訊きたかったけど、怖くて訊けない。
ただ、母親の次の言葉を待つしかなかった。
百合も同じ思いなのだろう、身じろぎもしなかった。
「取り乱してすみません」
母親は端正な顔立ちをした人形のようになりながら、虚空の中の一点を凝視していた。
「いえ」
「葵たちが都内のショップで行われた新曲発売のイベントに参加した後です。葵が迎えのマイクロバスに最後に乗り込もうとした時、刃物を持った一人の男が葵をめがけて突進してきて…」
「……」
すっと身体の芯が冷たくなるのを感じた。喉の奥から感情が飛び出しそうになりながらも、あまりのことに竜也も百合も言葉も出なかった。
「あの子は、ほぼ即死でした」
透き通った希望と夢の感触を自分のものにしようとしていた矢先に暴漢によって無残にも幕を下ろされてしまった。たとえ、夢が破れたとしても、夢の形が変わったとしても、葵には生きていてほしかった。
心の闇の底で歯ぎしりをする。
言葉にならない言葉が血を吐いている。
「そんな。ひどい、ひどい」
百合が泣きながら叫んでいるのを、竜也はただ茫然と眺めることしかできなかった。衝撃が大きすぎると涙すら出ないことを知る。こんな酷い結末を誰が予想しただろうか。気がつくと、竜也は握りこぶしを作つて自分の腿を何度も何度も叩いていた。百合の嗚咽が続く中で、ようやく落ち着きを取り戻した母親が静かに言った。
「犯人の男は、もともと葵のファンだったようですけど、SNS上で葵に無視されたと勝手に思い込んで憎悪を募らせていたらしんです。でも、葵に対しての暴言とか殺害予告とかは一切なくて、いきなりだったので事務所としても手の打ちようがなかったということなんです」
「そうでしたか…」
記憶の中ではきちんと再現できる葵の顔を思い浮かべながら竜也は、かろうじて言葉を発した。
秒針が時を刻む音だけがやけに大きく響いている。
広い海に浮かぶ小さな孤島のように自分が頼りなくなる。
どうすれば救われるのかがまったくわからない。
「隣の部屋にいる葵に会ってくれますか?」
母親の言葉に初めて気づいた。
そうか。
葵はさっきから隣の部屋にいたのか。
会いたい。どんな形でも会いたい。
「はい」
母親について隣室に入る。立派な仏壇の中に葵はいた。遺影はアイドルとして活躍をし始めた頃のものだろう。化粧をした葵は、より綺麗になっていたけど、その中にはちゃんと自分の知っている葵がいた。満面の笑顔はファンに向けられたものだろうけど、ちょっとだけ右唇を上げているところは変わりなく、今自分に微笑みかけてくれているように思える。
それまでずっとずっと耐えていた涙が溢れ出した。いったん溢れ出た涙は決して止まらなかった。畳を睨めつけるように身体をこわばらせていた。涙声は、喉の奥が力んでかすれたうなり声のようになっている。悔恨の底知れぬ深さだけをただ見つめ号泣した。そんな竜也の背を、今度は百合がさすってくれている。しかし、その百合も泣き続けているのがわかる。
竜也の中では、あの花火の日に自分のためだけに歌ってくれたUruの「あなたがいることで」を歌う葵の歌声がずっと流れていた。
どんな言葉で
今あなたに伝えられるだろう
不器用な僕だけど
ちゃんとあなたに届くように
明日が見えなくなって
信じることが怖くなって
過去を悔やんでは責めたりもしたけど
僕を愛し続けてくれた人
もしも明日世界が終わっても
会えない日々が続いたとしても
僕はずっとあなたを想うよ
あの日僕にくれたあなたの笑顔が
生きる力と勇気をくれたんだ
星が見えない 孤独な夜でも
あなたがいる ただそれだけで
強くなれる
「これ、竜也君が葵にくれたものよね」
二人が少し落ち着いたところで、母親が竜也の前に指し示したのは、竜也が葵のために渡した、あの巾着袋だった。中にはお守りが入っている。
「そうです」
「葵はこの巾着袋を竜也君からもらった大切なものだからと言って肌身離さず持っていました。自分たちのグループが人気が出始めたのも、このお守りのおかげだし、このお守りがいつも自分を守ってくれているんだと言って。それなのに、あの日に限って、新曲の衣装に着替えた際、メンバーの一人がふざけて自分のバッグに隠してしまったらしいの。もちろん、後で返すつもりで」
「そうだったんですか…」
もし、葵がいつものようにお守りを持っていたら結果は違ったんじゃないかと思いたいとう母親の気持ちが痛いほどわかった。本当のところはわからないけれど、そう思うことで母親の気持ちが少しでも楽になるのであればと思う。
「でも、形見ですからお母様にお持ちいただいたほうが」
「ううん。葵は竜也君に返してもらいたいはず」
「そうですか。わかりました。大切にします」
一緒に食事でもという誘いを断って葵の母親の家を辞した。夕闇が竜也と百合を覆うようにすっぽりと包んでいる。駅への向かって歩き出したが、二人に言葉はなかった。どちらかが何か一言いえば、その場に頽れてしまいそうだから。電車に乗って多くの乗客の中に紛れ込むことで、ようやく会話ができた。
「竜也、ああいう形で葵と会うことになって後悔してる?」
「いや…」
そう答えたが、本当のところは自分でもわからなかった。事実を何も知らず、一生葵のことは当時のままにしておいたほうが良かったのか。ああいう形でも再会できたことが良かったのか。でも、今、後悔はしていない。
「まったく後悔していないよ。結果は悲しかったけど、最初からどんな結果でも受け入れるつもりだったから」
「そう…。竜也って強いね。私は全然ダメ」
「別に強くないさ。辛いのは俺も同じだよ。でも、俺たちにできるのは、短かったけど葵が懸命に生きた時間を愛することだと思うんだ」
「そうだね。そうだね…」
「おい、ここで泣くなよ」
「わかっているよ」
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