恋のしっぽ(あの恋に会いたい)

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 人は、夢の中で、あるいは目の前の妻と雑談をしている最中に、あるいは会社のどうにもつまらない会議中に…。ふと、自分が過去にした恋のしっぽを見つけてしまうことがある。  一度見つけてしまったが最後、そのしっぽの先にあるものの正体を見ずにはいられなくなる、ものらしい。 第一章 1-1  松本竜也が8年に亘る海外赴任から東京本社に戻ったのは3か月前の、花から淡い薄紅色の光が立ち上る4月のことだった。 緑の大地の真ん中で方向感覚を失った人のように、ずっとちぐはぐな思いを抱えながら日々を過ごしていたが、仕事は海外にいる時以上にハードで、なかなか休みも取れない状況が続いていた。そんな中、間もなく夏休み期間に入ろうとしていた。 「今年の夏休みは、久しぶりに日本で迎えることになるんだよな」  昼食後のコーヒーを飲んでいる時に、同僚で同期の山口圭太に言われ、竜也は改めて自分は日本に帰ってきたんだなあと思いいたる。時間はいつも自分を先回りして待ち構えている。 「そうだね」 「俺は家族で海外でも行こうかと思ってるんだけど、お前はどうするつもり?」  圭太がコーヒーカップを置き、外から差し込んでいる光を眩しそうにしながら、のんびりとした口調で言う。 「俺は田舎に帰ろうかなと思ってる」 「そうか。そりゃあそうだよな。お前、海外から戻ってきたばかりだもんな」 「そうだよ」 「そう言えばさあ、玲奈ちゃん再婚したの知ってる?」  つむじ風のように自分の前を去った元妻の玲奈の顔が目に浮かぶ。  『そう言えばさあ』と今思いついたような圭太の言い方にちょっと違和感を覚えたけど、自分の考えすぎだろうと思い直す。玲奈も圭太も自分も同期入社メンバーで、圭太は玲奈と仲が良かった。 「あっちにいる時に噂は聞いた」 「へえー、海外にまで届くんだ」 「聞きたいわけじゃなかったけど、わざと俺に耳に入れようとする人間がいるみたいで、まわりまわって入ってきた」 「そうか…。おかしなヤツがいるもんだな。しかし、俺はお前たち、すごくお似合いのカップル、お似合いの夫婦だと思ったんだけどなあ」 「もう昔の話は勘弁してくれよ」  同期入社の玲奈とは新入社員研修の際に同じグループになることが多かったことから親しく口をきくようになった。それがきっかけとなり、気がついたら恋人同士になっていた。それほど二人の交際はスムーズに進んだ。会社が社内恋愛を認めていたので、特に隠すこともなく付き合っていた。何よりも感覚が合った。本の趣味や見たい映画も同じだったし、笑うところも一緒だった。だから、圭太が言うように、似合いのカップルだと自分たちも思っていた。そして、自然な流れで、付き合い始めて3年目に結婚した。結婚生活も恋人同士の延長ですごく楽しかった。  だが、翌年、竜也にフランス支社への赴任の話が出てから状況は一変してしまった。竜也は海外赴任を自分にとってのチャンスととらえたが、玲奈は海外で暮らすことに不安があると難色を示した。確かに、現地生活に馴染めず奥さんがうつ病になったというような話は聞いたことがあった。ただ、玲奈は社交的な性格だったから、そういう心配は杞憂に過ぎないとと竜也は考えた。だから、毎日毎日玲奈を説得した。もちろん、単身赴任という方法もあったが、何年になるかわからない赴任生活を単身で行くという選択肢は当時の竜也にはなかったのだ。  結果、玲奈は折れてフランスへ一緒に行ってくれることになった。1年間は特に問題もなく過ぎた。これでもう大丈夫だろうと思ったのだが、考えが甘かった。  特に問題がないように見えたのは、玲奈が我慢していたからに過ぎなかったのだ。1年と、ちょうど1カ月後の夜に玲奈のたまりにたまった思いが爆発した。  いつも通り、『楽しい』夕食を終え、リビングでテレビを見ながら寛いでいた竜也の前に玲奈が立った。 「私、明日日本へ帰ります」  玲奈の顔に影が斑に落ちていた。 「何、突然」  言葉の欠片を繋ぎ合わせようとするけれど、あまりに突然過ぎて、竜也は何が起こったかわからなかった。 「それから、これ。私のところはもう署名捺印してあるから」  突き付けられたのは離婚届の用紙。  玲奈の顔には揺るぎない意思が浮かんでいた。 「ちょ、ちょっと待ってくれよ」 「あなたにとっては突然かもしれないけれど、私は1年間ずっと我慢してきたのよ。あなたはそのことに気づかなかった? いや、気づこうともしなかったんでしょうね、その驚き方を見ていると。だから、もう終わり。以上」  それまで見たこともないひどく冷たい目をした玲奈は、そう言って自分の部屋へ入ってしまった。  指先がひんやりしたと思ったら、それが全身に伝わった。  夜の闇の中で、それまで玲奈と過ごした時間が堂々巡りをしていた。  翌日、玲奈は宣言通り、竜也が会社にいる間に一人で日本に帰国した。二人であれほど誓い合ったはずの『愛』は、まるで人生に書いた落書きのように、あっけなく過去へと落ちて行った。  彼女の心のあり様に気づいてあげられなかった自分も確かに悪い。しかし、ずっと我慢するのではなく、ちゃんと言ってくれたら良かったのにと、後になって思ったけれど、彼女にとっては、そういうことではなかったのだろう。お互い若かったのだ。相手のことより、自分の思いのほうが大事だったのだ。  当時のことは今思い出しても、鉄を舐めたような味しかしない。 「ところで、あっちで新しい彼女はできなかったのか?」  圭太の声が現実に戻す。アメリカ支社に赴任していた時、アメリカ人の彼女がいたことはある。 「出来たけど、別れたよ」 「あっ、そう。じゃあ、一人でゆっくり田舎を楽しんでくればいいさ」  変に詮索してこないところがありがたい。実は彼女ともかなり揉めた。ある事が起きた時、文化の違いとか価値観の違いが衝突をより激化させ、収拾つかなくなってしまった。無数の棘のような言葉を投げかけ合ったことが、お互いをひどく疲弊させた。その過程を他人に話せるまで、まだ自分の心の中で整理ができていない。 「うん。そう思ってる」  竜也の会社では全社一斉の夏休み期間が1週間あるが、その前後に自分の有給休暇をつけて10日程度休む人が多い。それでも仕事に支障が起きないように職場単位で調整が行われる。若い女子社員は平気で2週間に亘る休暇申請を出してくるため、課長代理クラスの竜也たちは、彼女たちのすき間を狙って休みを分散取得することになってしまう。  竜也はお盆の会社の一斉休暇の時は帰省客で混むことがわかっていたので自宅マンションで一人ゆっくり過ごし、9月初めに5日間の休暇をとり、田舎に帰ることにした。その旨、実家の母に電話する。 「ああ、ちょうどいいね。お盆には昌弘一家が来て大騒動になるからさ」  5つ上の兄の昌弘には子供が3人いる。母にとっても、父にとっても孫は可愛いに違いないだろうけど、何日もいられると疲れるというのも本音なのだろう。 「うふふ。母さんたちも、もう若くないからね」 「そうだよ。特に、お父さん、最近スタミナ切れになるのが早くてさ」 「へえー、あの親父がねえ」  父親は体格がよく、いつもエネルギッシュだった印象がある。 「あんたが海外に行っている間に二人とも歳をとったっていうことよ。ところで、あんた。今度来る時、外人の彼女を連れてくるとかないでしょうね」  ひょっとしたらそうなってたかもしれないのだが、両親のことを考えると、そうならなくて良かったような気もする。 「ないよ」  曖昧な感情が、ぶっきらぼうな言い方になる。 「そう。良かった。でも、日本に戻ったんだし、そろそろ再婚を考えたほうがいいんじゃない」 「わかっているよ」
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