VR五条川の桜並木

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VR五条川の桜並木

 砂利の上に立つ僕の目の前で、満開の桜並木が淡紅色の幕を下ろしていた。今にも落っこちそうなほど項垂れた枝の先には、快晴の日差しで煌めく大きな川。取り囲う急斜面は草花によって鮮やかな緑に色づいている。  岩倉(いわくら)新橋(しんばし)を行き交う車の喧騒を背にして、僕らは(わだち)に均された砂利道を行く。僕のいる道も川の向こう側にある道も、それこそ流水のごとく溢れんばかりのユーザー()達でごった返していた。  最盛期に負けないほどの賑わいに圧されることや、焦りを感じたりすることはない。ただ風の感触と薫りがないことを惜しみながら、僕は並木の方へ歩いていく。 「よ、杉野(すぎの)。待った?」  三歩動いたか否かのところで、人波から伊山(いやま)が手を挙げて現れた。薄ベージュのニットに黒デニムというカジュアルな服装の彼女に、僕はえっと、「今来たとこ」と返す。  本当はお互いついさっきまで一緒にいたけれど、このデートみたいなシチュエーションは伊山から望んできたものなので乗っかることにしている。 「それにしても賑わってんなあ」 「うん。杉野がいなかったら心細かったかも」  はにかむ伊山の後ろから、夫婦と思しき男女が近付いてくる。視線は川面を染める花筏(はないかだ)に釘付けになっており、こちらの姿は見えていないようだ。  二人はそのまま伊山に体を重ねると、何食わぬ顔ですり抜けて歩いていった。  その背中を見送りつつ驚嘆する伊山。 「……すごい、本当に全部映像なんだ」  勤務先で同僚から聞いたばかりという彼女のことだ。びっくりするのも無理はない。 「みんな他所(よそ)から繋いでるユーザーさんだからね。実際に部屋にいるのは僕達二人だけだよ」  そう。  さらに言うと、映像なのは人だけじゃない。今まさに視界に広がる五条川の自然全てが、現地から中継放映された立体映像だ。  靴で踏み締めている砂利はフラットな床で、木々のざわめきと川のせせらぎは立体音響で、雅なお花見舞台に見えているのは真っ白な壁四面だ。  僕達は五条川ではない所にいる。だから風が頬を撫でてくることもないし、ユスリカの群れが頭に纏わることもない。ここでは全てがユーザーの僕達に干渉し得ない映像なのだから。人や木をすり抜けて歩くこともできるし、その気になれば川の上を走ることだってできる。  拡張現実(VR)にインターネットを組み合わせることで実現した精密な旅行擬似体験(バーチャルツアー)。  のちに『VRトラベル』と呼ばれるサービスを展開するために、簡素な造りの娯楽施設が全国各地に建てられた。  僕達が今いるのは渋谷区の一軒にある、白壁白床だけに見えるだだっ広い部屋。この予約制で利用できるVR専用ルームを二人で、カラオケボックスの要領で貸し切っているところだ。  今現在、世界規模で流行している感染症の拡大を防ぐために、昨今の日本では外出の自粛を呼び掛けられている。そんな中で少しでも人々に旅行気分を味わってもらおうと、様々な有志による取り組みが為されてきた。そこから派生したサービスがVRトラベルだ。  徹底した除菌と清掃がなされた最寄りの空間で、室内にいながら開放的な自然や街巡りを楽しめる。さらにインターネットに繋いで自身の位置情報と動作、発言を送信することで、同じ観光スポットに来ているユーザーにも、自分がその場にいるように見せかけることができる。五条川の脇道に人集りが見えるのと同じように、僕と伊山もまた他所では通行人(エキストラ)の役割を果たしているだろう。  実際のところ、現地はほぼ無人であるはずだ。それなのに密集、密接を避けた上で人混みの賑わいを嗜めることから、今やVRトラベルは全国大勢の利用者から注目されている。  ちなみに、自宅でもVRトラベルができる機器の開発も、現在進行形で進められている最中だという。まだどんな物になるか想像すらつかないけれど。 「それにしてもさ、杉野、ここに来るの高校生以来だよね。映像とはいえ」  隣で歩きながら伊山が話し掛けてきた。  歩くと言っても僕達はその場で足踏みするだけで、立体映像の方が後ろへ流れることで前進したように見せかけている。 「だね。まさか社会人になっても伊山と付き合いがあるとは思わんかった。職場は別だけれど」 「ね。二人揃って上京するなんてね。……でもさ」 「でもさ?」 「佐伯(さえき)ちゃんも一緒だったらなーって……」  二人で立ち止まって並木道を一望する。  僕と伊山、そして佐伯は同じ高校で知り合った仲だ。帰り道には三人とも必ず岩倉新橋を通るから、季節の折々に立ち止まっては五条川の並木を一緒に眺めていた。根元に生えているシロツメクサから四つ葉を探そうとして、日が暮れて三人仲良く親に叱られたこともある。僕と伊山が五条川にいる時は、無遅刻無欠席の佐伯も確実に一緒だった。  あれから九年経って僕は伊山と東京にいるけれど、佐伯は清須(きよす)市に残って働いている。そういえば、何の仕事をしているかは聞いてない。けれど精一杯頑張っていることだけは分かる。 「あっちでもVRで通信できるかは分からんけれど、いずれにしろ佐伯は仕方ないよ。落ち着いた頃にまた三人で来よう」 「うん。……にしても仕事大変そうだよね、佐伯ちゃん」  一昨日のLINEで佐伯もVRトラベルに誘ったところ、「仕事があるからごめん」と断られてしまった。今までの会話のやり取りから疑似旅行には興味津々なようだったけれど、突っぱねざるを得ないほどに忙しいということだろうか。 「ねえ杉野、あれ」  不意に伊山が小声で呼び掛けた。視線は川の下流付近の岩場をぼうっと眺めている。  近付いて目を凝らさないと見えなかったけれど、その先には六人ばかりの(まば)らな年齢層の大人達がしゃがんで何かしていた。それぞれ片手に白いゴミ袋をぶら提げている。 「掃除してくれてるんだ……」  映像であるはずのゴミを掴んで袋に放れるということは、あの人達は現地にいるのだ。  密集を避けるためか、清掃一度分にしては人数がずいぶん少ない。それに脇道にいるユーザー達の景観を損なわないために、急斜面の隅に身をひそめて黙々と作業をしている。  伊山は何を思ったのか、並木を通り抜けて、急斜面を横切って、現地の方々のもとへ一歩ずつ近付いていく――……  ぷつん、と色鮮やかだった五条川の景色が消え去って、代わりに白一色が視界に飛び込んだ。  いつの間にか正面の壁スレスレまで寄っていた伊山は「わっ」と声を上げ、硬直しながらも少しずつ状況を理解する。 「あー、もう時間かぁ」  予約した滞在時間が残り五分前を切ったので、映像と音声が自動的にシャットダウンされたのだ。  間もなくログアウト処理も自動でなされ、僕達のアカウントは五条川との接続から切り離される。今ごろ他のユーザーから見た僕達の姿は、いきなり消え失せたみたいに映っているだろう。 「終わっちゃったね。堪能した?」 「すごい良かった。写真撮りたかった……」  余韻に浸っている様子で、伊山は天井を仰ぎながら肩を落とした。立体投影設備の盗用防止とのことで、VRルーム内での写真撮影は原則禁止だという。  アルコールで二人の手指を消毒し、ルームから退出して、お会計を済ませた。  エントランスを出た僕達を、高層ビル群の(そび)える大都会が迎える。新幹線で片道三時間かかる帰省の旅から、僕達は九分足らずで戻ってきたのだ。 「じゃあ杉野、明日も張り切って生きますか」 「うん。お互い元気でね」  存分に英気を養った僕と伊山は、それぞれの帰路についた。 了
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