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帰宅後すぐ、哲也は実家の母に電話をした。
数コールの後「はーい、原田でぇす」と呑気な声が聞こえてきた。
「母さん。俺、仕事辞めて実家に帰るよ」
哲也の精神はとっくに限界を超えていた。味方がどこにもいないこの土地で、これ以上頑張ることなどできる気がしなかった。
「急にどうしたのよ。嫌なことでもあった?」
母の心配そうな声に反応して、色眼鏡に微かな色が灯る。しかし、電話口の声であるせいか、色味が薄過ぎて識別が難しい。
「いや。ただ、今の仕事はあまり向いてないのかなって思ってさ」
本当はそんな理由じゃない。きっと今の自分の声は灰色だな、なんて他人事のように思う。
「……そうかねえ? 母さんは、そうは思わんけど」
母は少し間を置いて言った。再び識別できない程度の、わずかな変色。
「もっと自分に自信を持ちなさい。あんたが頑張ってるとこ、ちゃんと見てくれてる人がいるはずだから」
「それに、」と母はおっとりとした口調で続けた。
「母さん、あんたはできる子だって、ちゃんと知ってるからね。あともうちょこっとだけ、諦めずに続けてみたら?」
刹那、眼鏡ははっきりとその色を変えた。哲也の視界を包み込んだのは、草原のような柔らかな色。
優しさと思いやりを含んだ言葉。そして、目の前の緑。
そうか、緑の感情の意味は――。
哲也の視界が、涙で滲んでゆく。
それからしばらく会話して、電話を切る時、母は付け加えるように「でも、どうしてもダメなら、いつでも帰っておいで」と言ったが、すでに哲也の心は決まっていた。
「俺、もう少しだけ頑張ってみるよ。俺のことを思ってくれて、ありがとう」
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