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桜貝と半袖
このままずっと電車に乗り続けていたら、いつかは発狂するだろうなと思うほどの、混雑と熱気。
満員電車、毎日の光景。そう。毎日のことなのに、いつまで経っても慣れることはない。それに加えて、まるで冷房が効かないという苦行。
数日前、同棲していた彼女と別れた。満員電車には慣れないが、ひとりの生活にはもう慣れた。
ドアの開閉の時に新鮮な空気を吸いたいがためにドアの側に立つ。
窓から見る車窓。
変わり映えのしない景色と混雑のピークの通勤に、俺の気持ちは完全に鬱だった。
「ふ、……くしゅ」
ふと。俺の斜め前にいる女性が、小さくくしゃみをした。目を移すと、直ぐ側に栗色の頭。
女子高生だ。胸のリボンはストライプ。私立だろうか。見たことのない、制服。
女子高生はカバンをがさごそと探り、中から小さな花柄のハンカチを取り出して、口元に当てた。制服は見たことがないが、これはどこかで見たようなタオルハンカチ。どこにでもあるようなデザインなのか。
肩まで伸ばした髪は、天使の輪が見えるくらい滑らかで、艶のある薄めのブラウン。
俯いた顔の、頬の白さに、俺は目を離せなくなった。
押さえていた口元のハンカチが離れていく。スローモーションのように彼女の唇が暴かれて、俺はさらにその桜貝のような唇に、視線が釘付けになった。
(わ、可愛いな)
口元。色白な肌の上で、薄づきのピンクのリップが浮き上がっていて。ふっくらとした、丸みのあるその形。その桜貝のような唇に、誘われるように視線を落とす。
(くしゃみも可愛かったけど、唇も可愛いなあ……顔はどうなんだ?)
人混みの中、顔の向きだけを調節して、彼女の顔を覗き込もうとしたその時。
ギギギーと甲高い悲鳴のような音が響いたと同時に、ぐらりと身体が揺れた。
「うわっ」
電車が、駅のずっと手前で急ブレーキをかけた。吊り革とか手すりとかに、つかまっていなかったのもある。
大きく身体が前後に揺れ、俺の足は一歩前へ出たと思うと、次には後ろへと引かれた。
「わわっ」
俺は背後に立っていた年配の男性にどんっと背中をぶつけた。いや、俺だけじゃない。混雑の車内は波のように大きく揺れ、それぞれがそれぞれにぶつかっては、体勢を立て直している。
あちこちから、すみません、の声。
そして、電車は完全に停車し、さらにガクンと揺れた。すると、今度は、俺の胸あたりに衝撃があった。
「きゃっ」
直ぐにも車内放送がかかる。どうやら飛び出してきた動物をはねてしまったらしい。少し時間をくださいと、車掌らしき人のアナウンスが響いた。
「なんだよ、こんな時に……」
つい、恨みがましい言葉を発してしまった。今日は珍しく寝坊してしまい、電車を二つ、遅らせてしまったということもある。湧き上がってくる焦りを感じながら、俺は視線を元に戻した。
桜色のリップの女子高生が、こちらをじっと見ている。なんだろう、気にかかったけれど、その理由は直ぐに判明した。
「あの、……ごめんなさい」
? と思った。確かに彼女は、電車が思わぬ動きをした時、彼女が俺の胸に飛び込んできたし、半袖のワイシャツから出ている腕にすがりついてきていた。
ニヤニヤしているつもりはないが、下心ありと思われるのも癪だったので、俺は唇を引き締めて、硬い表情で返した。
「いや、大丈夫だよ。急にブレーキかけるだなんて、危ないよな」
「事故なんだから、仕方ないじゃん」
優しく親切な感じで言ったつもりが、冷たく返された。可愛いなと思った気持ちは、その一言でどこかへ吹っ飛んでいった。近頃の女子高生、恐い。
「これぇ、私がやっちゃったかも」
人差し指で、俺の胸を突く。突かれた胸元に視線を落とすと、そこに桜貝の跡のようなものを発見し、さらに気持ちが萎えてしまった。
ピンクのキスマークだ。ポスターかデザインかのように、くっきりと描かれている。
心底、嫌気がさした。
「あーあ、何やってくれるんだよ、もー……」
女子高生へと抗議の声を出す。
小顔で色白。まつ毛はツケマツゲ、瞳は大きめのブラウンのカラコン。偽物。すべてのパーツが偽物だ。それなのに、どうして可愛いなんて思っちまったんだ?
ただ唇だけは、本物だ。ふっくらとした、桜色の唇。その唇の跡が、魚拓でも取ったように、俺の胸元にべっとりと付いているのだが。
「洗濯で落ちるってぇ」
その唇が、笑みを浮かべながら言った。
「バカなこと言うなよ」
しまった。ここは電車の中で、良い大人が女子高生を怒鳴りつけるのはまずい。しかし、あっという間に女子高生は笑顔をおさめ、冷ややかな表情で言った。
「何よ、弁償しろってこと?」
「まずは謝れってことだ」
「え、あたし、最初に謝ったよね?」
車内の空気が一気に悪くなる。ちょっと大人気ないか。そう思って声を掛ける。
「もう良いよ。それより君は大丈夫だった?」
優しげなサラリーマンを演出すると。
「キモ」
なんだと、ムカついた。めちゃくちゃムカついたけれど、ここで激怒しても身動きは取れないし、世間さまの目の前で、怒り狂って醜態を晒すこともできない。周りの乗客にも、『小娘に弄ばれる憐れな大人』的な目で見られていて、俺は怒りに身悶えながらも、ぐっと耐えた。
「クリーニングに出すからもう良いよ」
「最初からそう言えば?」
しっぺ返しをくらったような返事に、だったらクリーニング代払えよ、と出かかった言葉を飲み込んだ。俺はこれ以上、会話が成り立たない気がして、無視をすることに決めたのだ。
その後、車内アナウンスを入れた後、電車はそろそろ走り出し次の駅で無事に停車した。俺は人の波にのまれながら、その駅へと降りる。
怒りはまだ収まってはいない。降りた電車のドアへと振り返る。プシュっと空気が抜けたようなドアの音と同時に、あの話の通じない異次元の生き物がドアの側に移動した。
そして、ゆっくりとスローモーションのように、ドアは閉まっていった。
ガラス越し、女子高生が手鏡を出してピンクのリップを塗り直している。
(なんだよ、ほんとムカつくな)
俺はその場に立ち止まり、女子高生を睨みつけた。その間にも、降車の客は俺を置いて、足早に改札口へと去っていく。
女子高生は、リップをつけたばかりの唇をもごもごとさせながら、こちらを見た。視線が合って、俺がさらに睨みつけると、彼女はさらにムカつくことに、にこっと笑い、しかも小さくバイバイをしている。
そして、持っていたリップを、窓に押しつけるようにして、掲げて見せた。まるで勝ち誇ったかのように。
そのリップに覚えがあった。サーモンピンクのプリズムカットのデザインで、宝石みたいな輝きがあるねと、元カノのミキが気に入っていたものと同じリップに見えた。
(くそっ! なんだよ、あの生意気な女子高生!)
今度、電車で会ったら説教してやる。
俺は憤慨しながら、胸ポケットについた、桜貝のようなキスマークを見た。香りつきなのだろう、微かに甘い香りが漂ってくる。
(サクランボ味ってか?)
洗濯で取れるだろうか? そうだ、会社の女子社員にリップの落とし方を聞いた方がいいか。そういえば、次に狙っている派遣の女がいるから、この件をネタにしてホテルに誘ってみよう。
そんな風に思い巡らせながら、桜貝をそっと、右手の指先で撫でた。
電車が出発のベルを高らかに鳴らしている。ホームに響き渡り、俺はもう一度ドアを見た。
女子高生がまだ、こちらを見ている。
(冷たい態度とってたけど、なんだかんだで俺のことが気になるんじゃねえ?)
そして彼女の唇が、なにかを言った。
次々に、唇はワードを形どっていく。けれど、何を言っているのかは、読み取れない。
電車が動き出す。ゆっくりと。速度を上げていく。女子高生は飽きもせず、またリップを塗っていた。
電車の後ろ姿とホームにかかるその陰影が小さくなっていき、そして消えていく。
遅刻しそうな日に、こんなハプニングは、なかなかない。いけ好かない女子高生だったが、これが女子高生のキスマークだと思うと、さっきまでの怒りも少しだけ薄まった。
(ははあ、女子高生か。案外それも有りかもな。次に会ったら、説教も兼ねて……)
半袖のワイシャツにキスマークだなんて、ドラマの中の浮気発見の修羅場でしか見たことがない。あ、待て。俺も一度、それで浮気がバレたことがあったな。あの時も、電車でつけられたって、言えば良かったのか。これは、使える。
嫌な思いはしたが、確かに桜貝のようなキスマークは可愛いし、しかも女子高生のものだし、派遣の彼女と盛り上がれるかもだし、と思いつつ。俺はニヤニヤしながら、さらに指先で、桜貝をぐりっと触った。
『呪 わ れ ろ』
何かが聞こえてきて、指先に感じた違和感があった。
「い、痛っ……」
その右手の指先に、なにかが食い込んだような感触と痛みとを感じながら、俺は慌ててキスマークに触れている、俺の指先を見た。
自分の指が。
ない。
視覚的に。指がキスマークにめり込んでいる? いや、そんなわけがない。錯覚だ。
俺は、指を引っ込めようと力を入れた。
え?
なに?
ちょっと、待て?
離れない。
指が離れない。
パクパクパク
手がぐいっと、もの凄い力で引っ張られていく。手を離そうとするが、離れない。指先が、キスマークに喰われていく。
「な、なんだこれ、」
ひどく強い力。そしてあっという間に、手首まで喰われていって、俺の右手が一瞬にして、消えた。
「う、嘘だろ。なんだこれ、離れねえ、やめろ……やめろやめろ」
バクバクバクバクバクバク
慌てて周囲を見回すが、朝のラッシュで行き来する乗客は皆、スマホに夢中で誰もこちらを見ていない。またはホームに設置してある、でかい看板が邪魔をしているせいで、俺には目もくれず、黙々と改札口を目指していく。
「ひいぃっ嫌だ、やめろ、助けてくれ、だ、だれかっ、助けてくれっっっ」
バクバクバクバクバクバクバクバクバクバクバクバク
「あああぁぁああ、ぐげえぇぇ」
腕を大半、喰われ、そして。そのまま胴体、下半身まで喰われたところで、思い出す。
「「なんて冷たい男なの! あんたからは優しさのかけらも感じられない!」」
狂ったような女の声。何度も何度も、女たちの同じセリフを聞いてきた。
女子高生が使っていたハンカチ。どこかで見たヤツだと思っていたら、結婚して欲しいと迫ってきたセフレ、サオリが持っていたハンカチだ。おまえとは遊びだっつーのと言ったら、泣き叫んでトラックに飛び込んでいったなあ。
うっわ、そういうことは俺のいないところでやってくれ。
そういえば、あのリップは元カノのミキの持ち物だ。別れ際に別れるくらいなら死んでやるとか騒ぎ出して、そんなら死んだら? と言ってやった女だ。
回らない頭。おぼろげになる意識。最後に見た、女子高生の唇。その残像。
去り際に残した唇の形と、桜貝が放った、耳に残る言葉。
『呪 わ れ ろ』
今際の際で一致した。
あの女子高生は。いったい、誰だったのだろう?
付き合う前に捨ててきた女たちが、俺を冷たい男だと非難し罵倒する。うわんうわんと頭の中、残響が響き、ずきずきと酷く頭痛がする気がした。
それが、ぴたりと止ん、……
駅のホーム。
血飛沫の中、桜貝と半袖の残骸だけが、残った。
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