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さて、クリスの突飛な二度目のプロポーズの後、僕達はボートに乗った。奈良公園内の池のボートに乗るのは、燈花会へ来たカップルにとっては定番のデートだった。
ボート乗り場には長い行列ができていたが、やがて順番が回ってきて、クリスは張り切って先に乗り込んでいく。このボートへ乗るのは初めてだったから、彼は少しはしゃいでいる。
「橋の下をくぐろうか。その先で一枚撮りたい」
彼はオールを漕ぎながら、声を弾ませた。池に掛けられた大きな橋の上にもずらりと蝋燭が並べられて、それはゆらゆらと波打つ水面に映っている。まるでその先が黄泉の国へ続いているように感じられて、少しだけ恐ろしくなる。だが、目の前にいるクリスがやはりはしゃいでいるのを見れば、彼と一緒ならそれも悪くないかもしれない――と思い直すことができて、自然と笑みが零れた。
「ねぇ、クリスも写ればいいのに」
「そうだね。あとでお願いしてもいい?」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「たまには一緒に撮ろうってこと」
「……あぁ!」
そうか、と言わんばかりに、彼は目を輝かせる。写真家で、ちょっと出かける時にもカメラを持ち歩くのに、彼自身が写った写真は少ない。彼はいつでも風景と僕ばかり追って、カメラを構えるからだ。
「後で、誰かに一緒に撮ってもらおう」
そう言って、彼はまたカメラを構える。そして、散々僕や無数の蝋燭達を被写体にした後、「あぁ……」と満足気にため息を吐いた。
「どうしたの?」
「日本は美しい国だね」
「奈良だけが日本じゃないけどね、僕もそう思うよ」
「ヒカル。私は君に、寂しい思いをさせていないかな?」
どうして今更になってそんなことを訊ねるのだろう。もう二十年も一緒にいるというのに。僕は思わず噴き出してしまった。
「何なの、急に。今更になってそれを聞かれても困っちゃうなぁ。でも――」
君と暮らすアラスカのノースポールも、僕は好きなんだよ。そう言いかけて、口を噤んだ。彼の、うっとりと僕を見つめる表情に不意に、見惚れたのだ。
「――でも?」
「あぁ……、なんだっけ。忘れちゃった」
「えぇ? 忘れちゃったの?」
けらけらと笑う彼に、僕はまた見惚れる。信じられないかもしれないが、僕らはこうして歳を重ねてきた。長年共に暮らしていても、変わらず、互いに恋をしている。それは二十年前、この燈花会で誓い合った気持ちと何ら変わりない。やはり過去に感じた僕の直感は間違っていなかったのだ。僕は彼と一緒にいれば必ず、幸せだった。
ボートを降りた後、僕達は再び公園の小道を散歩した。彼は歩きながら、たかが池のボートに乗っただけなのに、大航海から戻ったような口ぶりで「素晴らしい船だったね」とはしゃぐので、僕は思わず噴き出して笑ってしまった。だが、ちょうどその時だった。
「写真、撮ってもらえますか?」
若い女性二人に声をかけられた。手にはケータイを持っている。
「……もちろんです」
「ありがとうございます!」
「あの、できればあとで僕ら二人も撮ってほしいんですが……」
「ええ、いいですよ!」
久しぶりの日本語で話しかけられて、僕は少しだけ緊張する。昔より、少し日本語が下手になったのを彼に気付かれるのも、笑われるのも癪なので、ぼんやりしていた頭を無理やり働かせ、僕は日本語脳に切り替え、言葉を交わした。
「撮りますね! はい、チーズ!」
女性二人に手渡されたケータイで写真を撮り、確認をしてもらい、代わりに僕らの写真を撮ってもらう。彼に写真を撮られることには慣れていても、こうして彼と二人で並んで撮られるのには慣れていなくて、少しだけ照れくさい。
そうして、一通りやり取りが終わると、僕はほっとして彼女たちの背中を見送ったが、彼はやはり笑った。
「君、今は英語の方が上手だ」
「日本語が下手になった」とは言わず、「英語の方が上手だ」と言ってくれる彼の優しさに、愛おしさを感じる。だが悔しい。
「君のせいじゃないか」
「そうだね、僕のせいだ」
「次に来る時には、慣らしておかなくちゃ」
「そうだね。二十年経ったら、私達は七十歳か……。――大変だ。もうおじいちゃんだ」
そう言って、彼は笑う。いつか来る四十周年記念の旅行の話をするクリスを見つめながら、僕の胸の内側はじんわりと温かくなる。二十年後、彼の傍には、僕が当たり前にいるのだ。その幸せを、僕は噛みしめるように感じていた。
クリス、ありがとう……。君のせいで、僕はこんなに幸せだよ。
この公園に灯されたたくさんの蝋燭は明日の朝には消えてしまう。僕達も同じだ。ひっそりと、何を遺すこともなくいつかは消えてしまう。けれど、燃えている時にはきっと、隣に置かれた蝋燭を照らしてあげられるだろう。その隣の蝋燭に、少しだが、温かさを感じさせてやれるだろう。もしかしたら、気が付かずに誰かの足下を照らすことだって、できているのかもしれない。きっとそんな風に、僕達は命を燃やしているのだ。
揺らめく無数の蝋燭の傍を歩きながら、僕はふとそんなことを思った。そして恋人の横顔を見つめ、再び思う。彼といれば、やはり僕は必ず幸せだった。
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