燈花会の夜に

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 八月の盆。とっぷりと日が沈んだ頃。アスファルトにはまだ太陽の熱が残っている。息をするのも億劫になるほどの蒸し暑さの中、僕は彼と二人でホテルを出た。通りには人が大勢歩き、皆、同じ方向へ向かっている。彼らの目的は僕達と同じ。奈良公園で行われる、燈花会(とうかえ)という祭りを観に行くのだ。 『あー、もうすっかりくたびれちゃった。分刻み行動なんだもん。こんな旅行じゃ全然リフレッシュなんかできやしない』 『だって、なるべくたくさん観て回りたいじゃないか』 『またそのうち来ればいいのに。言っとくけど、僕はもううんざりなんだよ』  そんな会話がふと頭の中に浮かんだ。隣を見ると、彼が無言で困ったように笑みを零す。それから「ごめん、またあっちこっち連れ回して……。疲れちゃった?」と訊ねる。僕は頷き、そして応える。 「もう慣れた」  嫌味たっぷりに言ったのに、また、隣で彼は笑う。その笑顔は昔と変わらない。柔らかく、優し気。どこか困ったように眉尻を下げて目を細くする。だが、以前より目尻や口元には皺が増え、茶色い髪には白髪が混じっている。年老いた彼の横顔を見つめながら、思い出す。自分もまた、同じだけ歳を取ったのだ――と。  同性愛のパートナーとして結ばれ、二十年。僕らは互いに歳を取った。友人や家族は大抵が、それぞれ異性のパートナーと結婚し、家庭を築き、新しい命を授かり、育て、命と血と縁を繋いでいる。家を買って、車を買って、また家族が増えて、毎年幸せいっぱいの年賀状を親戚や大事な友人に送る。だが、僕らは変わらない。ずっと二人で、二人だけの世界で生きて、歳を重ねてきた。  ただし、二人だけだから不幸とか、子どもができないことに悲観しているのでもない。僕達はただ、二人だった。たまたま子どもを作れない条件を持つ相手を好きになって、二人で歩く人生をたまたま選んだ。それだけだ。 「初めてここへ来た時はまだ二十代だったんだなぁ。いやぁ、すっかり歳を取ったもんだね」 「それなのに、どうして旅行のスケジュールだけはこう忙しないままなんだろうね。僕は不思議だよ」 「それはもう何度も話したじゃないか。たくさん回れば、それだけ君との思い出を増やせるだろ」 「ふん」  それを聞きたくて、僕はいつもわざと愚痴を言う。彼の旅行のスケジュールの組み方はおかしい。これは出会った頃から変わらない、彼の癖のようなものだった。  彼は早朝から僕を叩き起こして、まだゆっくり寝ていたいと文句を言う僕を引きずるかのように観光へ出かけ、腕時計を常に気にしながら、できるだけ効率を重視して多くの観光地を回ろうとする。昼ご飯は手っ取り早く食べられるところがいいと言い張るので、選択肢はどうしても狭まり、せっかくの旅行だというのに、ファストフードで胃袋を満たすことも珍しくなかった。それには何度も苛立って、旅先で喧嘩になったこともある。  何十年経っても、彼の旅行の仕方は若い時と変わらない。本当ならいいホテルでゆっくりして、どこか出かける予定を作っても、時間には余裕を持って観て回りたい。僕はそう思うのに、彼ときたら、効率を重視して回りたがる。まるで営業マンの外回りのような観光スケジュールを組むのだ。彼のせいで、僕はいつだってくたくただった。 「お昼だって、もっとちゃんとしたお店で食べたかったのに。結局ハンバーガーだけでさ」 「でも、その代わりお寺を多く回れたし、限定のバーガーを食べられたじゃない。食べたいって言ってなかった?」 「言ったけど……。でも、もっとお洒落なカフェとか、お土産屋さんも行きたかったよ」 「じゃあ、明日行こう。ちょうど、隙間時間が一時間半――くらいあるから。フライトを夕方にしてよかった」  僕は笑みを引きつらせる。どうして彼はこうも効率ばかり重視するのか。若い時には彼の気持ちがわからず、僕はただ苛立って、彼に感情をぶつけるばかりだった。話しても話しても平行線。曖昧な関係のままで言葉もくれない。もう別れてやろうと思ったこともある。けれどある時、それが彼の癖と、不器用な愛情の証だと知ったのだ。 「あっ、ここアングルがいい。ヒカル、ここ立って」 「えぇ、さっきホテルの前で撮ったじゃん……」 「いいから。ほら」 「もう……」  ここはまだ公園の外。見渡しても、どの辺りのアングルが彼のお気に召したのか、僕はよくわからなかった。だが、首から下げた一眼レフカメラを構えて、彼は「そこ、そこで止まって」と言って片目を瞑る。僕は不貞腐れ顔でカメラを見つめる。彼はその後、すぐにシャッターを切った。 「OK! とてもいい顔してたよ」 「どこが。ふくれっ面だったはずだけどな」 「それがいいんだ。怒ってる顔は今日はまだ撮れていなかった」  そう言うとわかっていても、不服そうに鼻を鳴らして見せる。すると彼は「ごめん、ごめん」と言いながら、また困ったように笑った。
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