燈花会の夜に

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 彼は写真家だ。名はクリストファー・レーン・コックス。アメリカ人である。彼には、日本での永住権を得た恩師がいるのだが、その人に会う為に、若い頃から度々日本を訪れていたらしい。かつて僕らが出会ったのも、そのタイミングだった。たまたま一人で奈良へ旅行へ来ていた僕が、同じく観光中で、迷子になっていた彼を道案内したことがきっかけで知り合ったのだ。  僕達は、互いに一人だということがわかって一緒に食事をし、お酒を飲んで、連絡先を交換した。翌日の観光は一緒に、という話になり、その後、二日ほど行動を共にした。当時、僕も彼も、既に同性愛者だという自覚があったので、互いに惹かれ合っていると気付くまではさほど時間はかからなかった。  抹茶のソフトクリーム欲しさに群がる鹿をそっちのけにして、僕にキスをした彼の照れくさそうな表情は今もよく覚えている。あれが僕の、ファーストキスだった。  ただし、大変だったのはそれからだ。当時の僕達にはたくさんの障害があった。文化や価値観の違い、言葉の壁、そして同性愛者であるがゆえに向けられる、偏見の眼差し。いや、偏見の眼差しよりも、寧ろ僕達を苦しめたのは、言葉の壁や価値観の違いの方であったかもしれない。  彼が写真家だと知ったのは、出会って、結ばれて、数年経ってからのこと。その頃、僕は好きな人と気持ちが通じたのだと浮かれていたが、数ヶ月もすると次第に不満を抱くようになった。数週間――いや、数ヶ月間、連絡が途絶える――ということが、彼にはよくあったからだ。  もちろん、仕事で連絡が取れなくなるということを、事前に彼は報せてくれる。けれど、何の仕事をしているのか、少しも教えてくれず、訊ねてもはぐらかされてしまって、僕はいつも不安や不満と闘っていた。そもそも彼と僕は「付き合おう」とか「恋人になろう」とか、明確に言葉を伝え合ったわけでもなかったのだ。それに気が付いた時には絶望すら感じた。これは恋人という関係ではない。ただのセックスフレンドに過ぎないのではないか――と。  だが、そんな付き合いが数年続いたある夏の日、彼は突然、僕を旅行に誘った。奈良へ行こうというのだ。数ヵ月ぶりの連絡だったが、僕は溜まりに溜まっていた不満をぶちまけて、旅行の初夜は大変な口論になった。 『もう疲れた! 僕はうんざりだよ!』  何度、彼にそう言っただろうか。とにかく僕は怒っていた。二人で旅行へ行くのに、場所はあらかじめ決められている。どうしてその場所なのか満足のいく理由も教えてくれない。旅先では分刻みのスケジュールでの観光を強いられる。僕は彼の身勝手さのすべてに矛先を向けた。  しかし、その数時間後、彼はすべてを話すと約束して、ホテルの近くで行われている祭りへ僕を誘った。そこで真実を知ったのだ。彼が写真家であり、世界中――それもアラスカや、寒さの厳しいロシア北部を主に飛び回り、そこに暮らす人々や動物たち、大自然をレンズ越しに追っていたこと。そして、日本に滞在できる限られた時間の中で、彼が僕との思い出を必死に、できるだけ多く、作ろうとしていたことも。 『すまなかった。写真家だという仕事を隠したかったわけじゃないし、君を信頼していなかったわけじゃないんだ。でも、怖かった。私の仕事を話したら君には反対されそうで、もしかしたら振られてしまうんじゃないかって……』 『はあ? それが信頼してないって言ってんだよ』 『本当にごめん……。でも、信じて。君を誰よりも愛してるんだ』  彼はそう言って、奈良公園の小道で僕に口づけた。足下に灯る無数の蠟燭(ろうそく)の火が彼の申し訳なさそうな顔を揺らめきながら照らしていた。薄茶色く透き通った、まるでシトリンのような瞳が真っ直ぐ僕を見つめて、少しだけ潤んでいた。  僕はとても怒っていたのに、彼の瞳に釘付けになって、ただ彼を見つめることしかできなかった。しばらく互いに無言でそうしていたが、そのうち、不意に彼はポケットから銀色に光る指輪を取り出し、僕の薬指に嵌めた。指輪はぴったりだった。 『私はいつも不安だったよ。離れている間は、君が知らない誰かのものになって、私を忘れてしまっているんじゃないか、会っている時には、これが最後になってしまうんじゃないかって……』 『それはこっちのセリフだよ。大体、海外へ行ってたなんて全然知らなかったし、会うのだっていつも外か、僕の家だったろ。あんたはちっとも自分のことを話さないし』 『本当にごめん……。私は君を失うのが怖くて堪らないのに、何もかもうまく話せなかった。でも、君だけを、こんなに愛してる。それをわかってほしくて、今回、私は君に会う為に日本へ来た。君をどうしても、私だけのものにしたかったから……』  僕が彼のプロポーズを受けなかったはずがない。当時、僕はぼろぼろと涙を流して頷き、彼にしがみついた。あの時、たぶん――彼も泣いていた。
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