燈花会の夜に

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 数々の障害に悩み、彼が何者なのか知らずに体を重ねていた当時は、本当に苦しかった。けれど、僕はいつだって彼だけを見つめ、求めていた。彼が大好きだった。  シトリンのように薄い茶色の瞳や、色白の肌。それから、優しくて柔らかな彼の笑顔が大好きだった。僕が英語をうまく話せないばっかりに、カタコトの日本語を使って「ええと、ええと」と、言葉に詰まりながらも、一所懸命に話そうとしてくれるところも、夜、ベッドで愛し合う時、名前を呼んで、甘い言葉を囁いてくれるところも、朝は僕よりも必ず先に起きて、コーヒーを入れてくれるところも、カフェでコーヒーを何杯もお代わりしながら、僕の話を穏やかに聞いてくれるところも、全部、全部愛おしかった。  会えない日々の中で、ちょっとでもいいことがあると、僕はすぐに彼に話したくなったし、夜、眠る前には必ず恋しくなって、彼を思い出していた。  時折、僕が感情的になって、「別れる」と喚いても、彼は必ず引き留めてくれ、絶対に僕を離してはくれない。恥ずかしい話だが、僕はとても子ども染みた大人だったから、彼の優しさにとことんまで甘えていたのだと思う。  とにかく、怒っても、笑っても、泣いても、僕は彼と会っている時は、必ず幸せだった。必ず、だ。だからこそ、なぜ彼が言葉をくれないのかとても不安だったし、うまくコミュニケーションが取れないことや、時々連絡が途絶えてしまうことに焦っていた。しかし、今やそれらはすべて大切な思い出の一部である。彼の情熱的なプロポーズで、僕達は真に一つになった。  僕達がアラスカへ移住したのは、それから数年後の事だ。ノースポールの町はこじんまりとしていて、僕達が静かに、ひっそりと暮らすのには最適だった。  僕は近所のマーケットで働き、月に一度、それなりに見合った給料をもらう。クリスはそこに暮らす人々や、動物たち、大自然を写真に撮り、時には物語を書いた。とても純粋でいて、透き通った氷のように儚く――だが美しい、そんな物語を。  彼は時々こう話した。「地球温暖化の影響で、既に海に呑まれた村がある。ここもいつかはなくなってしまうのかもしれない。悲しいことだけれど、その儚さはどこか僕らに似ているよ」――と。  彼は、移り変わる時代の中で失われていくアラスカの大地と、遺すものもなくただ今ある命を燃やし続ける僕達の存在を、似通ったものとして見ているようだった。そして、彼がなぜ、パートナー二十周年記念の旅行にこの奈良の燈花会(とうかえ)を選んだのか。なぜ、ここ奈良公園だったのか。今の僕はそれを聞かずして、理解することができる。いや、知っていると言ってもいい。 「ヒカル、彼らはきっと私達と同じだ」 「うん」  クリスが今、「彼ら」と言ったのは、ここにある無数の蝋燭(ろうそく)のことだ。彼はそれらを僕達と同じだと思っている。限りある命を燃やして、輝き、いつかは消えてしまう、僕達と同じなのだ、と。 「とても愛おしいよ」 「うん……」 「それから、すごく綺麗だ」 「綺麗だね……」 「――あ、そうだ、いけない。忘れるところだった」 「ん?」  彼がふと思い出したようにポケットを探る。当時の風景と重なって、僕はほんの少しだけ緊張し、胸を高鳴らせる。それがときめきだとわかったのは、彼が銀色のネックレスを僕につけてくれた時。彼の指がほんの僅かに肌に触れた瞬間だった。目を細めた彼と視線がぶつかって、とくん――と胸が震える。 「クリス――? これ……」  胸元に光るのは、羽の形をしたチャームだ。羽の付け根には無色透明の光る石が嵌めこまれている。 「ヒカル、今までありがとう。そしてこれから先もよろしく。私はこの先も永遠にヒカルだけを見つめて、ヒカルの傍にいる。そう誓うよ」 「え――ちょっと……」 「愛してる……」  甘く囁くと、彼は突然、僕の手を取り、(ひざまず)いて手の甲へキスを落とした。その光景を見てか、周囲にはたちまち人だかりができ始める。五十を過ぎた初老らしき男が連れの――それも、同じく初老の男の手を取って、(ひざまず)いたのだから無理もない。 「クリス……! 何、これ……どういう――」 「今日、私はここで君に二度目のプロポーズをしたかった。昔はここで君を随分泣かせてしまっただろ。でも、僕は本当はあの時、君を泣かせたかったんじゃない。笑わせたかったんだ」 「笑わせて――いや、ちょっと待てって……」 「返事を聞かせて、ヒカル」  彼が優しく言うので、僕は戸惑いながらも応えるしかなくなった。 「も、もちろんだよ、クリス。僕だって君と――」  そう言った瞬間、彼は僕に飛びついて抱きしめて、唇を塞いだ。周囲からは拍手が起こる。「おめでとう」と声が上がり、僕は慌てて彼の体を離して、ぺこぺこと頭を下げる。二十年前の記憶と現実が目の前で重なっている。僕は彼を引きずって、ひとまず人だかりを抜け出した。 「あんな所で突然……、恥ずかしいじゃないか……」 「ごめん、ごめん」  彼がまたそう言って、困ったように笑うので、僕は釣られて笑った。僕が笑うと、彼は無邪気に嬉しそうな顔を見せ、僕の手を引いた。
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