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その2
ジャックは妻を、ジルを心の底から愛していた。
よく喧嘩もしたが、それでも妻を愛する気持ちに変わりはなかった。
お互い有名な絵描きでもなかった故に、貧しい生活を送らざるを得なかったが、二人ともそれで満足だった。何故なら、絵を描くことが大好きで、その大好きな事で生活ができると言う精神的満足感と充実感。
そしてなにより、愛する人と生きる喜び。
それこそが、自分の、否、二人にとっての〝生きている″意義付けであった。
毎日がとにかく楽しかった。絵を互いに描き、それを売り、一緒に食事をし、一緒に寝る。二人で笑い、二人で怒り、二人で泣く。
ジャックにとって、ジルはまさにこの世の中で誰よりも大切な、″魂の半身″であった。
彼女がいなければ生きていけない。離れたくない。いつまでもジルと一緒に生きていく。
ジャックはそう思い、いつまでも彼女がそばにいるこの生活が続くものだと、心の底から信じて疑わなかった。
愛する妻が病気で死んでしまうまでは。
病名はチフスだった。治療法のなかった当時、不治の病とされていた伝染病だった。
ジャックは泣いた。自分の涙が枯れ果ててしまうのではないかと思うほどに、ワンワンと、絶叫に近い声をあげながら泣き続けた。
その日から、彼の心にはぽっかりと大きな穴が開いた。妻が死んでから、ジャックの心も一緒に死んだのだ。
葬儀を終えてもジャックにはジルが死んだという実感がなかった。妻がいなくなり、静まり返った室内にいても、彼は心のどこかで思い、願っていた。もしかすると、妻が死んだというのは嘘か何かで、いつの日にか、もう一度ドアを開けていつも通り笑顔を自分に見せてくれるのではないか・・・と。
しかし、所詮、それは願望である。いくら願っても現実が覆ることはない。その現実が自分に襲いかかる度、ジャックはベッドの中で、時に妻のお気に入りだったワンピースを抱きしめて、現実を呪い、そして、妻のことを思い出して涙を流した。
だが、二人が共働きをして何とか成り立っていた生活だ。妻のいなくなった生活が、安定するはずはない。いつまでも落ち込んではいられないという、ジャックが忌むべき現実からの圧迫感が、死ぬ勇気もない、妻の思い出と幻影に身を投じていた自分を、仕事への復帰へと後押しした。
彼は、妻のことを振り払うように、今まで以上に多くの絵を描き、仕事に没頭した。そうした甲斐もあってか、初めは不安定だった経済状況も、努力の甲斐もあって、なんとか軌道に乗ってきた。少しずつだが安定し始めた生活は、一応の安定感を彼にもたらした。
だが、それでも尚、死んだ妻のことが心の残滓として残っていた。
生活が満たされても、心が孤独を訴えていた。
せっかく慣れ始めてきた、妻のいない生活。一人だけの、物悲しく、物足りない生活。それは過去を捨てきれない自分への甘えかもしれない。だが、そうした孤独感が、妻にもう一度会いたいという気持ちに変わりがないことを気付かせた。
そして、現実と向き合ううちに、自分の心は、叶わぬものと認識し始めた願いを訴え始めた。
死んだ妻に会いたい。幸せだったあの頃に戻りたい。ただ生活するためだけの、空虚で、平穏な掠れた日常の中、安定し、ゆとりを持ち始めた生活の中で、自分の心が生み出す、他愛のない、それでいて切実な願いに翻弄されつつも、彼は一人だけの生活の為に、絵を描き続けた。まるで、叶わぬ願いを払拭するかのように・・・・・・。
だが、妻が死んでからちょうど4年の歳月がたったある日、たった一つの出来事が、彼のその後の人生を変えた。
ある日のこと。買い物をしようと、久々に遠くの街まで足を運んだ帰りのことだ。
いつもと違う道から帰宅しようとしたジャックは道に迷い、路地裏を彷徨っていた。
一体、どこをどう行けば、自分の知っている街道にたどりつくのか。日が沈みかけ、オレンジ色に染まり始めた空の下、途方に暮れて彷徨い歩く彼の目に、ふと、一軒の店が目に止まった。
骨董屋だった。
古惚けた造りがなんとも印象的な店で、看板や曇ったガラスからのぞく商品が、店内の淡い光に照らされながら、こちらをうかがっていた。
「・・・・・・」
何故だろうか、気付けば、ジャックの足は自然と骨董屋の方へと吸い寄せられるように歩いていた。今にも壊れそうなガラス張りの出入り口のドアを開け、するりと店内に足を踏み入れた。
「・・・・・・おや、いらっしゃい」
店に入るなり、店内の奥のカウンターから、腰が九十度近く曲がった小柄な老人が、自分の顎髭を触りながら、杖をつきながら現れた。
老人の姿に目を配りつつ、薄暗い店内を見渡せば、家具や時計に人形と、ガラクタばかりが並べられ、面白そうなものは見当たらず、自分でも、何でこんな所に足を踏み入れたのかわからなかった。
そんなジャックをよそに、老人は顔を覗き込みながら、聞いた。
「何かお探しかね?」
その質問に、ジャックは思わず口ごもった。むしろ、その質問は変な話、こちらが聞きたかった。
「いえ、その、なんていうか・・・・・・うん?」
何をどう言えばいいか逡巡していたその時、ふと、泳いでいた目が店の棚の一つ、小物ばかりで埋められていた一角に奪われた。青年は真剣な表情で棚に近づき、棚の奥へと手を伸ばし、埃にまみれたそれを手にとった。
何の変哲もない、長方形の木箱だ。しかし、ジャックは無意識のうちに埃を払い、ゆっくりと木箱の蓋を開けていた。
「・・・これは・・・」
中に入っていたのは、チューブ式の絵具だった。色とりどりの絵具一つ一つに、使った跡がみられ、いかにもな中古品だったが、絵具は新品に負けないくらいの輝きを放っていた。
ジャックはじっと、その絵具を見つめた。何故だろう、この絵具には理由なく惹かれるものを感じた。強いて言うなら、絵具に呼ばれているという表現が適切かもしれない。と、
「お客さん、その絵具が欲しいのかい?」
「っ!え?え、ええ・・・まぁ」
突然の老人の声に、我に返ったジャックは、声のする方へと振り向き、勢いに任せて買う意思を告げた。とはいっても、興味があるだけで、特に欲しい訳でもないのだが・・・・。
すると、その言葉を耳にした途端、老人はやや曇った表情を見せ、画家に告げた。
「・・・・・・お客さん、ワシの口から言うのもなんだが、その絵具はあまりオススメできないな」
「え、どうしてです?」
思わずその理由を聞く。すると、老人はとんでもないことを言い出した。
「その絵具はね、呪われとるからだ」
「・・・・・・呪われている?」
その言葉に、思わず、訝しげにジャックは老人を見つめた。すると、それに対抗するように、老人はジャックの顔を覗き込んだ。
「お客さん、ドリアン・グレイを知ってるかね?」
何故だろう、その名前を聞いた途端、ジャックは心臓が大きく高鳴ったのを感じた。しかし、その高鳴りを無理矢理押さえつけ、彼は老人に答える。
「ええ、知っています。印象派の油絵画家、バジル・フォードの絵のモデルになった青年のことでしょう?」
「そうじゃ、容姿端麗な美男子、ドリアン・グレイ。穢れ知らずの、純真無垢な遊び人だった彼だが、彼にはこんな奇妙な話があるのをご存知かな?
彼は、画家、バジルに肖像画を描いてもらってからというものの、まったく年を取らなくなったという話を」
その話を聞いた途端、更に自分の心臓が高鳴るのを、ジャックは感じた。
なんだ、なんでこんなに胸が高鳴る?自分でもわからぬこの怪奇譚のどこに、こんなに自分は関心を持つのだ?
「年を取らなくなった?」オウム返しにジャックはつぶやいた。そんなジャックの変化を知ってか知らずか、老人は更に語る。
「そうじゃ、代わりに、彼の肖像画がどんどん年を取り始めた。つまり、絵の中の自分が身代りになったんじゃな。
お客さんが今、手にしているその絵具。それこそが、バジルがドリアンの肖像を描く際に使ったと言われる絵具なんじゃよ」
「・・・はぁ」そんなすごいものだったとは露にも思わなかったジャックは、改めて手の中の絵具を見つめた。そんなジャックをよそに、老人は画家の手の中の絵具に目を向けながら、独り言のように、更に言葉を紡いだ。
「その絵具は様々な人の手に渡った。だが、その絵具を使った者は、皆、死んでおる。そして、ようやくこの店で落ち着いた訳なんじゃが・・・・やっぱり、皆、この絵具の他愛もない噂に惹かれたからかもしれんのぅ」
「・・・・・・噂?」
その言葉に妙な違和感を覚えたジャックが、老人の独り言に割り込んだ。すると、その衝撃的な言葉は、老人の口から唐突に出た。
「その絵具を使って描かれた絵は、全て本物になるという、現実からかけ離れた噂じゃよ」
その言葉を聞いた途端、ジャックの心臓が堰を切ったかのようにバクバクと体内で大きく音をたて始め、激しい緊張感と共に、一つの希望が生まれ、画家の心意を支配した。
この絵具で絵を描けば、描いたものが全て本物になる・・・・・・?
ジャックは食い入るように、手の中の絵具を見つめた。もし、この噂が本当ならば、この絵具を使ってジルを描けば、ジルを、死んだ妻を生き返らせることができるかもしれない。今まで心の中で抱いてきた淡い幻想が、現実離れしたただの儚い夢が現実になるかもしれない。そんな思いが一気に画家の中を駆け巡った。
そして、気付けば――――
「ま、どうしたらそんなしょうもない噂が生まれるのかは知らんが、あくまでそれは噂で――」
「――おじいさん」
重く、暗欝とした、呟くような、しかし囁くような声が響いた。
老人の目がジャックに向けられる。そこには、半ば狂気の様相をした画家が、人を今にも殺しそうな顔で老人を見つめていた。
「・・・おじいさん、この絵具を売って下さい」
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