その3

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その3

こうして、心配そうに見つめる老人を無理矢理押しきり、有り金をほとんどはたいて絵具を購入すると、老人から帰り道を聞きだしたジャックは大急ぎで帰宅し、さっそく呪われた絵具を使って妻の絵を描き始めた。 今思えば、どうして、たかが噂ごときに惹かれたのか。 もしかしたら、自分は妻のいなくなった現実に、噂に身を預けてしまうほど追いつめられていたのかもしれない。妻のいない孤独から、どんな形でもいいから逃れたかったのかもしれない。 だが、理由はどうあれ、彼が狂ったようにキャンパスに向かう理由であることには変わりはなかった。筆を動かすたびに、ジャックの網膜に亡き妻の顔が浮かぶ。その度に、最早、執念、怨念とも言えるほどの激情が、愛憎が、彼を動かす原動力となって、飲まず食わずに一心不乱に筆を動かしていった。 時間の流れが解らない。代わりにわかるのは、自分でも驚くほどの鬼気迫る集中力と、もはや自分であって自分じゃないような奇妙な感覚だけ・・・。 筆を動かす度に、心が叫ぶ。妻に会いたい。あの頃に戻りたい。妻の笑顔がもう一度見たい。その願いだけが妙に明瞭で、それ故に筆を動かす支えとなっていた。 筆を動かす手が止まらない。否、動かすのをやめた瞬間、全てが、この妻への思いも、今、こうしてキャンパスに向かっている情熱も、この神がかり的な技術も全て水泡に帰してしまうような気がした。まるで、神が自分に乗り移って、亡き妻の絵を完成させろと言っているかのようなきがした。一刻も早くこの絵を完成させなければ死んでしまう、そんな錯覚さえ覚えた。 ジャックはその使命に自ら飛び込んだ。網膜に浮かぶ妻を素早くトレースし、そこに幾重にも卓抜した技術で、絵具を精密に重ねていく。絵具が乾かなければ火を使って無理やり乾かし、色が足りなければ絵具を重ね・・・まるで、キャンパスの中に眠る亡き妻を己が描き出すことで、この世に出現させてやろうとするかのようだった。 そして、そんな狂気に憑かれた時間がどれだけ流れたのだろうか―― 「・・・・・・で、できた・・・・・・」 目に巨大な隈ができた、全身汗まみれのジャックは、着ていた絵具塗れの上っ張りを、同じく絵具塗れになった両手で脱ぎ捨て、息切れしながら呟いた。 視線の先には完成された絵があった。椅子に腰かけ、満面の笑みを浮かべる、愛しい妻、ジルの姿がキャンパスに描かれていた。それは最早油絵と言うには程遠く、写真と、否、本物と見間違えるほどにリアルに描かれていた。 「・・・・・・ジル」 ジャックはキャンパスに、否、愛妻へと呼びかける。しかし、当然ながら絵の中のジルは答えない。 「・・・・・・ジル」 二度目の呼びかけ。今度は呟くようにではなく、心から愛情をこめて。しかし、それでも絵の中の妻は答えない。ドリアン・グレイの絵具を使った絵は本物になる、それはやはり噂でしかないのだろうか。せっかく絵の具を使って亡き妻の絵を描いたというのに、絵は本物にならないのだろうか、自分のやってきたことは何だったのだろうか。 「ジル!」 気付けばジャックは叫んでいた。ジルが死んでからずっと、今まで心に秘めていた哀愁が、愛情が、寂しさが、激情となって彼を叫ばせていた。理想に、妄想に、噂にすら駆け込むほどに弱り切った自分に、絵は沈黙を持って圧し掛かるように思えた。が、 その時、ジャックの叫びに答えるように奇跡は起きた。 ジャックが叫んだ直後、突然、妻の絵全体に電流が走った。と、同時に疲れ切ったジャックの眼を焼き切らんばかりの金色の光が絵から放たれ、部屋中を包み込んだ。 あまりの眩しさに耐えかね、光から逃れるように、ジャックは顔面を両腕で覆いながら、その隙間から光を放ち続ける絵を見つめていた。 放たれた光はすごい早さでその形を変貌させ、人の形を象ると悪あがきのように部屋全体を金色一色で染め上げるまでの閃光を放った。さすがの眩しさに耐え切れず、画家は今度こそ眼を覆った。 やがて――ふっと、何の前触れもなく光は収まった。静寂を取り戻した部屋の中、ジャックは恐る恐る目を開き、自らが描いた絵を見つめた。 彼の眼に最初に飛び込んできた光景は、今まで自分が望んでいた光景だった。思わず胸が震え、嬉しさのあまり、涙ぐんだ。 「――ジル――」 そう。絵の中の人が座っていた部分がそっくりそのまま抜け落ち、目の前に普段着姿の亡き愛妻が立っていたのだ。噂は本当だった。ずっと会えないと思っていた愛しい妻が目の前に―― 「きゃっ!」 ジルが彼を見つめるよりも速く、感極まったジャックは、妻に駆け寄り、力強く抱きしめていた。ジルが悲鳴を上げる。だが、そんな事などお構いなしに、ジャックは堰を切ったかのように愛しい妻の名を呼び続けた。 涙が溢れた。これであの頃に戻ったのだと確信した。だが、 「会いたかった!本当に会いたかった!!」 「・・・・・・」 「もう離さない。絶対に離すものか!ジル!ジル!!」 「・・・・・・」 「ジル・・・ジル・・・・・・ジル?」 思いをぶつけるように叫ぶが、返答はなかった。あまりの無返答さに、ジャックは思わず、ジルへと向き直り――――奇妙な違和感を覚えた。 「・・・・・・ジル?」 「う?・・・・・・あう・・・あ、ああ」 異質な表情で見つめる夫に対し、妻はきょとんとした、まるで子供のような表情で見つめ返し、呻くように呟いた。そして、あろうことか、今度はぺたぺたと、ジャックの頬を触りだした。その様子から、会話が成立していないのは明白だった。 「ジル?ジル!」 ジャックは叫ぶ。だが、目の前の妻は「あう、あう」と虚ろな表情で言い返すのが精いっぱいのようだった。願いは叶ったはずだった。あの頃の、幸せだった時間を取り戻せたはずだった。なのに・・・ジャックは背筋に冷たいものが走るのを感じた。 「・・・・・・それから何度話しかけても、反応は同じでした。そして、僕は気付いたのです。いえ、正確には気付きたくなかったのかもしれません」 旅人が見つめる中、ジャックの話は、一つの締めくくりを迎えようとしていた。ジャックの口から、恐るべき告白が飛び出した。 「目の前にいたのは死んだ妻ではなく、死んだ妻の姿形をとった他人、それも中身が赤ん坊の人間もどきだったのです。案の定、二人目の妻は絵の技術や生活習慣どころか言語すらも話せませんでした。 僕は嘆き、絶句しました。確かに噂は本当だった。奇跡は起きた。しかし、目の前の妻は妻であって妻ではない。あまりにひどい仕打ちにひどく落胆し、塞ぎこんだのを覚えています」 心が耐え切れそうになかった。苦しくて、悲しくて、言葉にできないほどどうしようもなかった。確かに奇跡は起きた。願いは叶った。だが、だが――――その叶えられた願いが自分の望んだものから中途半端に離れ、叶えられた為に、ジャックが受けた傷は余計に大きく、深かった。 塞ぎこみ、今にも壊れそうな自分の横で、愛しい妻もどきは、何も知らずに画材道具で――しかも、知ってか知らずか、ジルの画材道具で――楽しそうに遊んでいる。 何故だろう、それを見る度に心が悲鳴を上げる。これ以上の仕打ちは拷問のようにさえ思えた。そして思う。これじゃあ、あまりにも自分が可哀想だ。これ以上は傷つきたくない、と。しかし、どうすればいい? 途方に暮れて、子供に返った、否、妻の姿をした子供を絶望の眼差しで見つめるうちに、ジャックの心に、暗く、ひどく澱んだ思いがふつふつと湧き上がってきた。 もう、これしかない。この手段しかない。こうでもしないと自分が壊れてしまう、と。
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