その4

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その4

「そして、その思いに駆られるように、僕は〝決意″したのです」 そう言った途端、ジャックは愛好の眼差しでジルを見つめ始め、対するジルも同じようにジャックを愛おしげに見つめ返した。 しばしの間。 その二人の突然のやり取りに、旅人は何故だろう、畏怖嫌厭の感情が、自分の心と体を染め上げるのを感じた。無意識のうちに、彼の言う〝決意″に自分が悪感と不快感を抱き始めている。そして、心が矛盾した思いを叫び始めた。この〝決意〟を聞くな、聞いたら後悔するぞ、と。その一方で、好奇心からかジャックの〝決意″を聞きたがる自分もいる。二つの思いが交差する中、ジャックが旅人に首を戻し、口を開いた。彼の口から好奇の答えが、聞いて後悔する嫌悪の答えが放たれた。 「――妻を妻にしてしまえばいい。そうです、妻を調教することにしました。僕は死んだ妻との思い出、妻の性格、妻の癖等の情報を、覚えている限り、新しい妻に徹底的に叩きこむことにしたのです。新しい妻が、死んだ前の妻になるように――!!!」 恐るべき画家の告白に、旅人の顔が不快感と驚愕に引き歪んだ。こんなことなら聞かなければよかった、と、好奇心が後悔の海に沈んだ。 そんな旅人をよそに、ジャックは恍惚の表情で語り続ける。 「妻を調教する過程で、僕はこのドリアン・グレイの絵具を色々な事に試してみました。すると、この絵具で描いたものは、描いた本人が強く願えば、全て実体化―――しかも、好きな時に、好きなように絵に戻したり、本物にさせたりすることがわかったのです!先程の料理もこうしてお出しすることができた訳です。 私は神に感謝しました。こんなに素晴らしいものに巡り合わせてくれたことに。生活は絵具のおかげで裕福になりました。だって、欲しいものはドリアン・グレイの絵具で描けば、必ず、望んだ時に本物にすることができるんですから!! しかし、私にとっては豪奢な家も、煌びやかな衣類も要りません。妻さえ、妻さえいれば幸せなんです!! そして、調教の甲斐あってか、妻は少しずつ妻らしくなっていきました。妻も僕を次第に愛してくれるようになりました。ある時は育ての親として、また、ある時は一人の男として・・・妻が妻になった時、僕は涙を流して喜びました。これであの頃の日々を、毎日が笑顔に包まれていた幸せな時間をやっと取り戻すことができたんですから・・・・・・」 自己陶酔のごとく語られた狂気じみた回想録は、夫婦が愛おしそうに見つめ合うことで終了した。 口をぽっかり開けたまま、旅人は呆然として、その機械じみた画家の話に耳を傾けていた。いつもの自分なら、そんな馬鹿な、と一笑してしまう程の滑稽な話であったが、あの、絵から料理が飛び出す光景を目にした今となっては、否応なしにその内容を信じるほかはなかった。 そして、ジャックを見て、旅人は思う。この男は狂っている、と。 だが、彼はこの猛吹雪の中、自分を助け、食事まで与えてくれた命の恩人だ。そのことを考えると、こうした胸の内をぶちまける訳にもいかないし、人の道に反することだ、と、何より自分の良心がそれを許さなかった。自分の心を悶々とした、嫌な感情が渦巻いていた、その時だ。 「では、二枚目の肖像画を描くきっかけについては、私がお話ししますね」 突然、ジャックの隣に座っていたジルが静かに口を開いた。旅人ははっと我に返り、ジルを見つめた。それを合図に、もう終わったかのように思えた悪夢は、今度はジルの口を借りて語られ始める。 「私達夫婦は幸せでした。ええ、本当に幸せだったんです。夫の望む妻、ジルを演じるように、私は育てられてきました。最初、それは苦痛に思えたんです。なにしろ私の意思など無関係だったし、もう死んでしまった人の代わりを演じるのなんか可笑しいことだと思っていましたから」 それはそうだ。そこまでの話の内容を聞いて、旅人は少しだが希望を持ち始めた。だが、それはすぐに勘違いだったと知る。 「最初はそう思い、徹底的に逆らいました。でも、その度に夫は私を殴り、蹴り、喚き、私を監禁します。辛かった。そして怖かった。なんで私はこんな目に会うのだろう?こんな思いをするなら逃げてやろう、それがダメなら夫を殺してやろうとさえ思ったこともあります。しかし、それこそが、その考えこそが間違いなのです!ジャックは私の親です!そして夫です!親に逆らう子供がどこにいるでしょう?夫に殺意を抱く妻がどこにいるでしょう?変わらない私がいけないのです。私が、この、愛する人を失い、その代わりを手にすることでしか癒されない、可愛そうな夫の為に慰めてあげなければ、守ってあげなければ――いつしかそんな思いが私を満たしてきたのです!」 段々と話の雲行きが怪しい方へと進んできた。 「私はひたすら努力しました。ジルさんの代わりになるように!!その甲斐あってか、ジルさんに近づけば近づくほど、夫はどんどん優しくなっていきました。謝ってくれるようになりました、大切にしてくれるようになりました、なにより、私をジルとして愛してくれるようになりました。 ・・・・・・嬉しかった。本当に嬉しかった。そして、振る舞えば振る舞った分だけ、優しくしてくれる、愛してくれる。自分は愛されているんだ、幸せなんだ。私を愛してくれる人といつまでもこんな生活を続けていたい。そう思っていましたし、信じていました」 ここでジルの声のトーンが下がり、暗欝とした重く、底冷えした空気が部屋中を包み込んだ。狂った話の内容と、そこから突然変わった場の空気。不安にかられる旅人をよそに、ジルは俯き、ゆっくりと口を開いた。 「・・・・・・愛する夫が、不治の病で倒れるまでは」 その矛盾した言葉の内容に、旅人は思わず眉をひそませた。ジルは辛い思い出を噛み締めるように、再度、その詳細を語り始めた。 「チフスでした。皮肉にも、ジルさんの命を奪った病です。 私は元々絵の中の人間です。私を描いた肖像画がある限り、死ぬことも、年老いることもありません。しかし、夫は生身の人間です。放っておけば死んでしまいます。なんとかしてあげたい。でも、治療法はない。必死の看病もむなしく、夫は日に日に衰弱していきました。愛する夫を失いたくない。でも、治療法はない。どうすることもできず、途方にくれました。 ・・・考え抜いた末、私は私を生み出したドリアン・グレイの絵具に辿り着きました。 夫の話では、ドリアンはバジルにこの絵具で肖像画を描いてもらってから不老になり、反対に肖像画が老けていった、と聞かされていました。 そこで思ったのです。これを使って夫を描けば、絵の中の夫が、病気で苦しむ夫の身代りになってくれるのでは、と。 それから私は、夫を死なせたくない一心で、この絵具を使って夫を描き始めました。 一刻も早く夫の絵を描いて、苦しむ夫を救うべく、飲まず食わずで夫の絵を描き始めたのです。・・・・・・絵を描き始めてから一体どれくらいの時間が流れたでしょう。遂に、寝たきりになった夫の肖像画は完成したのです! しかし、肖像画が完成した途端、夫の肖像画全体に、そして、どういう訳か、ベッドでうなされる夫にも電流が走り、部屋中を金色の光が包み込みました。私はあまりの眩しさに目を思わず覆いましたが、ひたすら光の中で願ったのです。ひたすら〝助かってほしい″と。 光が止み、部屋は静けさを取り戻しました。私は恐る恐る目を開けると、そこには奇跡が待っていました!さっきまでベッドの中でうなされていた夫が、上半身を起こしていたのです!!願いが通じた、病気は治った、そう思っていました・・・ところが―――」 「あなた!!」 光が止んだ直後、ジルはベッドの中で上半身を起こしているジャックに抱きつき、歓喜の声を上げた。しかし、彼は腕の中で泣きじゃくる妻を、ぽかんとした表情で見つめていた。それに気付かず、ジルはひたすら安堵の呟きを洩らす。 「よかった・・・本当によかった」 「・・・・・・」 「これでまた夫婦仲良く暮らせるのね・・・」 「・・・・・・ジル・・・君がジルだね?」 夫の何気ない奇妙な呟きが、彼女の勘に障った。気にはしながらも、きっと自分の気のせいだろうと、そう思って夫と向き直ろうとして―― 「――そうよ、私よ。あな・・・」 夫と目が合った。 「・・・・・・え?」 見つめ合う愛すべき夫に奇妙で、異質な違和感を覚えた。そして、何故だろう、目の前の夫を見つめる度に、その違和感が悪感へと移行し、全身を駆け巡っていくのは・・・ 「ジル?」 夫が呼びかけた。何事もなかったように、笑顔で。愛しいはずのその声さえも、今や名状しがたいほどの悪感に拍車をかけ、ジルの全身を今度は寒気が襲った。 違う。何かが違う。 ジルの本能が叫んでいた。目の前にいるのは夫なのだ。愛する人なのだ。だが・・・・なんだ、この異質な感じは。なんだ、この奇妙な印象は。 まるで、夫の姿に擬態した何か別の生き物のような・・・・・。 「ジル?」 夫がジルの顔を覗き込む。それに答えるように、なにより、自分の感じている違和感を振り払うように、ジルは恐る恐る夫に聞いた。 「あ、あなた・・・」 「うん?」 「あなたは、ジャック・・・よね?」 これが自分の間違いであってほしい。自分の勘違いであってほしい。そんなささやかな願いを込めて、愛する夫に呼び掛ける。すると、ジャックは貼り付けたような笑みをにんまりと浮かべ、その衝撃的な言葉を放ったのだ。 「うん、そうだよ。ただし、本物のジャックではなく、絵の中のジャックだけどね・・・!」 「・・・!!」 「この言葉を聞いた瞬間、ドリアンが不老になった本当の理由がわかりました」 旅人が絶句してその話を聞く中、ジルは、まるで遠い景色を見つめるような、切ない表情で語り始めた。 「あの絵具は・・・絵具で描かれた絵の中の人間を現実の人間の身代りにするものではなく、絵の中の人間と現実の人間を入れ替えてしまうものだったのです。その真実を覚った瞬間、私はショックで途方に暮れてしまいました」 「ジル、ご飯ができたよ」 「ジル。お茶だよ」 「おやすみ、ジル」 「ジル、ジル、ジル、ジル、ジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジルジル―――――――――――」 夫が自分を呼ぶ。本物の夫と何も変わらず、いつも通りに、そして何故だろうか、どこか機械的に。 どうしよう?どうしたらいい?いや、答えはわかっているはずだ、どうすることもできない、と。ああ・・・。 「ジル?何を悩んでいるんだい?悩むことはないじゃないか」 そう、何も変わらない。容姿も、性格も、癖に至るまで、全て夫と同じ。 「なら、心配なんかする必要はないよ」 心配することはない・・・? 「そう。何の心配もない。そもそも、どうして君はそこまで本物の旦那さんにこだわるんだい?」 そうだ。何の心配があるんだ・・・?そもそも、自分が望んでいたのは―― 「よく考えて。君が望んでいたのは愛情ある生活だろう?」 「・・・・・・ええ。そうです。私が望んだのは愛ある生活です。そして、悩んだ末に私は結論を出したのです!」 そこまで言った途端、ジルの表情がにっこりと笑みを浮かべ、旅人の方へと向き直った。 「私が望んだのは愛情を与えてくれる生活、私を愛してくれる生活です!その結論に達した時、ふっと憑き物が落ちたような感覚が生まれました。今思えば、あの焦燥感も、自分の中で答えが出ていないからです。そして――最初はこの夫に拒否感があったのです。でも、今ではこの夫でもいいかなって思うようになりました。だって――」 ここまで言った瞬間、ジルの笑みが明らかに狂気を孕んだ、凄絶なものへと変貌した。両目は限界まで開き、口元は今にも耳元まで裂けてしまいそうな程の、化け物じみた笑みに――― 「夫の姿をして、私に愛情を与えてくれれば、私は誰でもよかったんですから」 そう言うと、ジルはその怖気を催す笑みを貼りつけたまま、ジャックへと向き直った。 そこまで語って愛おしそうに見つめ合う夫婦を見て、今や氷のように冷たく、それでいて本能が異常と吐き気を訴えるほどの空気の中で、旅人は息をするのも忘れるほどの激しい畏怖に身を震わせた。 やはり、狂っていたのは夫だけではなかった、と。 目の前で笑い合う夫婦が異常な存在に思え、背筋が凍りついた。だが、全身に言葉にできないほどの恐怖が襲おうが、鳥肌が立とうが、旅人自身の強固な意志は、納得できずに、気付けば口を開かせ、夫婦に質問していた。 「・・・・・・それで、あなた達は幸せなんですか・・・?」 おぞましさに耐えながら、旅人は恐る恐る聞く。すると、夫婦は双子のように、まったく同時に同じ笑みを浮かべて―――― 「「はい。幸せです」」 「道中、お気をつけて」 「お世話になりました。それでは、お元気で・・・」 翌日の早朝、昨夜の吹雪が嘘のように晴れ渡った空の下、家の外まで見送りに来た夫婦に一礼すると、旅人は歩き始めた。 まばゆい陽光が自らの顔を照らす中、旅人は歩きながら、昨夜の奇妙な夫婦の話を思い出していた。 死んでしまった、愛する人にもう一度会いたい。そう願うことは罪じゃないし、素敵な事だと思う。でも、あの二人のやったことは・・・・・・ ふと、気になった旅人は、背後の家へと振り返った。 考え事をしながら歩いているうちに、随分と足を進めてしまったらしい。画家夫婦の家は、木々に埋もれるように小さくなっていた。勿論、そこに夫婦の姿はない。一瞬でも夢か幻を自分は見ていたんじゃないかとも思ったが、ちゃんと、件の家は小さく木々の中に存在していた。 『『幸せです』』 夫婦は口を揃えてそう言った。そうだとも、二人が幸せならそれで良いし、第三者である自分はその幸せに口を挟むべきではない。旅人はそう思った。いや、自らにそう言い聞かせた。しかし―― 「それでも、あの二人、何かが間違っているよ」 旅人の何気ない呟きは、雲一つない空の下、森の中へと吸い込まれていった。
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