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その1
深い深い森の中、旅人は遭難していた。
猛吹雪が顔面を容赦なく叩きつけている。
ただでさえ視界が悪い木々の中、真っ白な闇が視界を塞ぎ、口や鼻の中にまで、豪雪が侵入しようとしている。帽子とコートを、荷物を白く染め、突風が雪と共に行く手を阻む。
現在位置も分からず、吹雪の中を彷徨っていた時、幸運にもそれを見つけた。
光だ。淡い光が白い闇の中、ぼう、と輝いていた。
助かった。
旅人は最後の力を振り絞り、光に向かって歩き出した。
雪の上を何度も転び、時に木にしがみつき、両手で這いずり回りながら、唯一の目印に向かって、寒さで悴んだ足をもつれながら進めた。
やがて、光は近付くにつれ徐々に一軒の家へと姿を変えた。
木造建築の小さな家はぽつん、と森と吹雪の中に存在し、窓から暖かい光が漏れていた。
旅人はほっと安堵の息をつくと、急いで家の戸まで駆け寄り、木造のドアを力強く叩いた。
「・・・はい、どなたですか?」
しばらくすると、中から綺麗な声が響き、続いてドアが静かに開かれた。中から一人の美女が、長い髪をなびかせ、顔を出した。
一刻も早く吹雪から逃げたかった旅人は美女に対し、わざとらしく困った表情を作って言った。
「夜分遅くにすみません、旅の者ですが、この吹雪の中、足を進めることができません。すみませんが、一夜の宿をお借りしたい」
その言葉に、美女は戸を大きく開け、優しく微笑んだ。
「まぁ、それは大変でしたね。こんな家で良ければどうぞ、お入りください」
地獄に仏とはこのことだ。旅人は一礼すると、家の中へと足を踏み入れた。
「・・・これはすごい・・・」
家に入るなり、旅人は感嘆の声を上げた。
家のあちこちに、景色や人物などの素晴らしい絵画が所狭しと飾られていた。どの絵も写実的に描かれており、今にも飛び出してきそうな程リアルだった。
「さぁ、こちらです」
圧倒される旅人を、美女が先へ行くよう促した。美女に促されるまま歩いて行くと、やがて外観からは思いもしない程の広間に出た。旅人は広間を静かに見回した。
広間の左横にはイーゼルが数台に、二台の椅子、壁際には石膏像が収容された棚やら、絵具や画材道具が置かれた机やらが設置されていた。
右横には大きな丸テーブルが、その奥にはキッチンがあり、テーブルに一人の美男子が食器を規則正しく並べ、食事の準備をしていた。やがて、美男が気付いたのか、旅人と美女の方へと振り向いた。
「ああ、ジル・・・そちらは?」
ジルと呼ばれた美女は旅人を紹介した。
「旅人さんよ。この吹雪の中、道に迷ってしまったらしいの。一晩泊らせてもいいかしら?」
旅人が会釈すると、美男は優しく微笑んだ。
「ようこそいらっしゃいました。ジルの夫のジャックです。さぞお寒かったでしょう。なんの御もてなしもできませんが、今夜はゆっくりしていってください。
ちょうど食事の準備ができた所です。今、あなたの椅子を持ってきますから、少しの間ここでお待ち下さい。一緒に食べましょう」
「・・・かたじけない」旅人が言うや否や、ジャックはゆっくりとした足取りで広間にあったドアの一つへと消えていった。
ジルもジャックがドアを閉めると同時に、「食器をとってきますね」とだけ言って広間の奥、キッチンへと姿を消した。
なにはともあれ助かった。泊めてくれるだけでなく食事にまでありつけるとは。旅人は安堵すると、荷物を下ろしコートを脱ごうとした。と、突然ドアが開かれる音が響き、そこから椅子と・・・何故か一枚の絵を持ったジャックが姿を現した。
旅人が訝しげに持ってきた絵を見るよりも早く、ジャックは旅人の前に椅子を置くと、すぐさま自分の席に絵を持ったまま座って、旅人に向けて言った。
「さぁ、コートを脱いで。遠慮せずどうぞお座り下さい」
ジャックに促されるまま、旅人がコートを脱いで椅子に座ると、すれ違いざまに、旅人の分の食器を持ってきたジルがやってきて、旅人の分の食器を丁寧に並べ始めた。やがて、ジルが食器を並べ終わると、ジルも席に着き、三人でテーブルを囲む。その時、旅人は当然なことに気付いた。
(・・・食器だけ?肝心の料理は?)
食器だけが並べられたテーブルを見まわし、旅人は眉をひそめた。まさか、この食器を食べる訳はあるまい。しかし、二人は料理をする素振りも見せない。では、一体何を食べると言うのか。すると、
「さて、久々のお客さんだ。ちょうど食材も切らしていた時だし、こういう時にこそ使おう」
そう言いながら、ジャックは笑顔で自分の持ってきた絵を、何もないテーブルの中央に向けた。
(・・・絵?)
絵には様々な料理が描かれていた。まさかこの絵を見ながら食べるふりでもするのだろうか。そんな馬鹿な事を思った刹那、それは起こった。
一瞬、絵に電流が走ったかと思うと、網膜を焼き切らんばかりの金色の光が絵から放たれ、部屋全体を包み込んだ。旅人は突然の光に驚き、その眩しさから逃げようと腕で顔を覆い、残る夫婦は何事もなかったように笑みを張り付けていた。そして―――
突然、部屋中を照らし出していた激しい光が止み、周囲は静けさを取り戻した。
一体何があったのかと訳も分からず、恐る恐る、まだチカチカする目を開け、旅人が顔を覆っていた両腕を外すと、そこに広がっていたのは、目を疑う光景だった。
「あれっ!??」
旅人は驚きのあまり、声を荒げた。
目の前のテーブルの中央に、多種多様な料理の数々が出現していた。どの料理からも湯気が立ち、よだれがでそうなくらい美味そうだった。
続いて、ジャックが仕舞おうとする絵へと目を向け、更に驚き、息を飲んだ。絵の中にあった料理が消えていた。代わりに、絵のあった場所に絵の中の料理を模るように白い靄のようなものがかかっていた。
これは・・・
夢でも見ているかのような事態に旅人は思った。
絵から料理が抜けだした・・・と。
「さぁ、いただきましょう」
そんな非現実じみた現象に驚きもせず、ジルが笑顔で食事を促した。それを合図に、夫婦はすぐさま料理に手を出し、何事もなかったように、美味そうに食べ始めた。旅人があっけらかんとその光景を見つめていると、
「・・・どうしたんです?食欲がありませんか?」と、ジャックが心配そうに聞いてきた。
それに旅人は半ば反射的に素早く首を横に振ると、恐る恐る料理の一つ、スープに手を出し、スプーンで一口すくいあげ、無理矢理喉に流し込んだ。そして、気付けば呟いていた。
「・・・う、美味い」
その感想にジャックはにっこりと笑った。
「それは良かった」
「ジャックさん、さっきのは一体どういう事なんです?」
食事の後、何もなくなったテーブルの向かいに座っているジャックへと、旅人は怪訝な顔つきで話しかけた。すると、肝心のジャックは首をかしげながら口を開いた。
「〝どういうこと″とは?」
「とぼけないでください。料理のことですよ」
「料理?ああ、あれは俗に言う非常食と言うやつでしてね―――」
「そうじゃなくて!」
のらりくらりとしたジャックの返答に、旅人は思わず声を荒げた。
「どうして絵の中から料理が飛びだしたんです?一瞬、自分も幻かと思いましたよ、でも、二人とも平然としているし、平然と飛び出した料理を食べている、しかも、食べてみると美味い、おまけに食事が食べ終わった直後、料理を乗せていた皿がすぅっと消えてしまった!あれは一体何だったんですか!?」
どうしても気になっていた旅人は、ジャックに詰め寄った。それをジャックはどう答えたものかと困惑していると、
「・・・あなた、話してあげましょうよ。悪い人じゃなさそうだし」
最初に並べていた、使い終えた食器を洗い終えたばかりのジルが、エプロンを外しながらこちらへ近づいてきた。
その言葉に押されたのだろう、ジャックはしばし考えるような表情をした後、ため息をつくと、静かに、しかし、意を決したようにゆっくりと口を開いた。その横で、ジルがジャックの隣に腰を下ろす。
「では・・・この家と、あの画材道具やイーゼルを見ればおわかりでしょうが・・・僕と妻もですが、我々夫婦は画家を生業としています。まず、そうですね・・・このことをお話しする前にあそこにある二枚の肖像画を見ていただきたい」
そう言って、ジャックは指を広間の奥、画材道具のある方へと向けた。
それに続くように、旅人は指の差す方へと首を動かすと、何も飾られていない広間の壁に、広間の唯一の飾りとも言える肖像画が二つ、イーゼルやキャンパスから遠ざけるように飾られていた。
旅人は思わず、二つの肖像画を注視した。
見たところ、二つとも油絵のようだ。
左側の肖像画にはメインとなる人物の形に、白く靄がかかっていた。靄の形から察するに、この人物は椅子に座ってこちらを見つめているようだった。だが、背後の壁と椅子だけが写実的に描かれているのに、何故、人物が描かれていないのだろう。もしかして、この絵から絵のモデルが飛び出してきたのだろうか。
右側の肖像画には、年老いた男がベッドの中からこちらを見つめていた。一本一本の皺や髭、髪の毛に至るまで、正確に、細かく描かれており、左の絵とは対照的に、背景も、ベッドも、人物も、全てが写真と見間違うほどにリアルに描かれており、広間の外で見た―――恐らくはこの夫婦が描いたものだろう―――絵以上に写実的に描かれていた。しかし、それ故にどこか明らかに他の絵とは違う、奇妙な威圧感となって、目を引く存在として壁にかかっていた。
「・・・全ては、あの二つの肖像画を描いたことから始まりました」
二つの肖像画を見つめながら、ジャックはゆっくりと、自らの心を落ち着かせるように、そして、意を決したように全てを語り始めた。しかし、それはあまりにも狂った、奇怪極まる話であった。
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