クロの正体

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クロの正体

「その組織の総称をクロとする。いいですね、その害虫を今すぐ捉えなさい」  水の入ったペットボトルを歪な形に変形させながら、静かな口調で橋本警部は大野宮に喝を入れた。華奢なその首に、数本の筋ができている。 橋本警部の脅しを受けて、大野宮勇作は気合の帯を締めた。長年空手を教わってきた師匠と遂に一手交えることになったときのような、かなりの真剣顔になっている。 「ウォい! 了解しました。直ちに捉えます」 橋本警部の命令に呼応して敬礼をした後、大野宮は警視庁捜査一課のミーティングルームから勢いよく飛び出した。彼の精悍な面構えは、元警察総監であった親父譲りだ。 「待って下さいよ、部長。まだクロの、犯罪組織の顔も身元も特定できていません。無防備に行動しても無意味ですって」  大野宮が凄い力で扉を閉めようとして、部下である轟浩二が俊敏な動きで塞いだ。 「俺は薬の被害にあった患者を診察した医者に会ってくる。邪魔をするな。お前はSNSの情報収集でもしてろ! 」  どけ、と一喝して大野宮は走り出した。その場に暑苦しい風と煙草の香が舞う。轟は頭を掻きながら、ひねくれた顔で溜息をした。 「結果残せてないからって、焦り過ぎじゃないですか。第一病院の人間なんて、口固いんだし、作戦立てないと暖簾に腕押しでしょ」  二〇一九年五月二日、警視庁捜査一課に奇怪な連絡が入った。それは、「ここ半年で睡眠薬使用者と自宅の金品の消失届が増加している。以上二つには繋がりがあり、何か大きな犯罪組織が動いているのではないか」と予測する一本の電話だった。電話をかけた主は探偵と名乗る者で、橋本警部は彼の話を冗談半分で聞いていた。しかし、事態は深刻化していくこととなる。翌日、念のために橋本警部は調査を行った。すると、睡眠薬が原因で体調を崩した人間の総数とコールセンターが受け取った金品消失の電話の総数が、前年度と比較して共に三〇〇程増加していたのである。 「奇妙な数字の変化ですね。それに、探偵という人物が何故これを知っていて、何の目的でこちら側にその情報を伝えたのかも気になります」  エクセルで数字を割り出した轟が呟いた。轟は巡査になって三年目で、機械にめっぽう強い。IT企業ではなく警察に入社した理由は「ある小説の影響を大きく受けたから」と本人はよく口にした。 「探偵の居場所は掴めなくてな。逆探知をしても公衆電話からかけられたもので、近くに監視カメラが無い場所だった。沢山の使用者がいるから、鑑識を回しても無駄だろうな」  橋本警部は顎に手を当てて悩んだ後、昨冬から巡査部長に昇進した大野宮を呼び付けた。轟は一歩下がって、大野宮のスペースを開けた。やってきた大野宮に対して警部は、自らのデスクを人差し指で叩きながらその節を説明した。 「大野宮、轟、君たちは今日からツーマンセルでこの謎の捜査に当たりなさい」  この言葉が二つの意味を持って、二人を震撼させた。闇に包まれた犯人を追う奇妙さと、それを突き止めるワクワク感が、鼓動となって顕著に現れた。 アンラッキーボーイ 黄金色の太陽が山の稜線をふらついている頃、航は帰路についていた。 「今日提出した課題、手間かかったな。航は何時間かかった?」 「半日くらいかな」  航の隣を歩くのは、高校一年生で同級生の英二だ。英二は笑顔が絶えない陽キャラで、クラスの誰とでも分け隔てなく話すことができる。二人とも陸上部に所属していてクラスも一緒なので、無意識に同じ時間を共有することが多かった。 考えごとを嫌う英二とは裏腹に、航にはある一つの悩みがあった。 「ほんとかよ。俺は三時間ちょいで終わらせたけどな」 ポケットの中で、親指を他の四本の爪で痛めつける。  どんなことよりも先に、『マイナス』が頭を襲うのだ。 「じゃあな。航、今日の朝練遅刻しただろ。明日は遅れんなよ」  自宅の扉を開けながら言う英二に、明るく「了解」とだけ返事をして手を振った。英二の通学鞄に寄り添うスパイダーマンの愛嬌のあるキーホルダー。それが航には、己を睨んでいるように見えた。 英二と別れてしばらく歩いた航は、小川に掛かる極限まで無駄を省いた極小橋の手前までやってきた。 春の小川は心を澄んだ状態に癒してくれる効果があると、航は思っていた。脳裏にマイナスが過る度に、航は今まで周りを見てリセットしてきた。  友達に笑顔で振舞うたびに、航は自分の内面にあるハートが削られるのを感じていた。そんな性格が嫌になって、マイナス×マイナスがよりマイナスになるような、負の連鎖によって航は更に自分を嫌いになっていた。  小さい橋には触れることなく、小学生にとっては飛び越えるのが困難な小川を、悠々と跨いだ。(もう子供には戻れないんだな)ただ跨いだだけの小川から、微量のダメージを受けた。  両親は、航が小学校三年生の頃に離婚していた。離婚の原因はドメスティックバイオレンス。 父親が自身の勤務する会社の倒産によるストレスから、母親に手を挙げてしまった。そんな状況を見かねた母方の祖母が早急に離婚を進めた結果、二人は疎遠になった。  「出ていけ」と声を張る父親の顔は鬼瓦のように凶暴で、未だに強く航の脳内に印象づいている。 そして選択の余地なく祖父母の家での生活が決まった航は、転校先の小学校でイジメにあった。ありえない量の砂を上履きに入れられ、掃除中にバケツで水をかけられ、机に落書きを書き続けられる日々の連続。 「お前の傍にいると、なんか気持ち悪いんだよ」  イジメの原因は、雰囲気だった。 「掴めない。分からない。解決できない。醸し出している空気が、相手の気分を害させてしまう」 航は悩むことはあったが、それでも明るく努めた。いつかこの状況は変わる、と強い信念を持って生きた。メンタルのハートに罅は一切入らない。そんな無敵な小学校時代は、ここで終わりを迎えた。  道端に落ちている石を思いっきり前に蹴り飛ばす。航の脳内は、小学校の頃を思い出すと立て続けに中学校の記憶まで出てくるように、勝手にプログラムされていた。本人はプログラミングした覚えなど、一切なかった。  進学先である中学校には、同じ小学校から進学する人数が少なかった。それが功を奏して、イジメの頻度も激しさも格段に減り、入学から一ヶ月程で完全に無くなっていた。 そこから航の人生は、キラキラ輝きだした。体育祭で応援リーダー、文化祭ではメインキャスト。この時代の航は周りから大いに信頼される人間だった。当時から好意を抱いている平野七々穂という才女で皆から人気のある子とも、よく遊ぶ関係になった。所属していた陸上部では、見事都大会出場を果たし、頬は紅潮しっぱなしだった。 ボーナスタイムは瞬く間に過ぎて、受験のシーズンの到来。航は健闘したが目標だった第一志望の高校に落ち、滑り止めで近場の公立高校への進学が決定した。ここで内面にあるハートは、一度ダメージを受けてしまった。  カラスが上空で馬鹿の一つ覚えのように、カーカーと鳴いた。今日は四月の二七日で、翌週には華のゴールデンウイークが控えている。(早く長期休みに入って一人になりたい)マイナス思考男は、鮮やかな色彩の空を見ないで、春の暖かい景色を視界に入れないで、包んでくるような風を払いのけて家へ向かった。 航は高校で人気者になろうとした。中学校のテンションと動揺に同級生と絡み、それが周りの目には色物に移った。何処からか、「痛い奴」というレッテルを貼られてしまう始末だった。そこでハートはボロボロ状態。航にとって心の居所は部活のみだった。長距離走を繰り返して、タイムを縮めるのが生き甲斐になっていた。しかし一年の晩夏頃から、英二が急成長し出した。学校で上の存在に君臨している英二に、自分の十八番である「陸上」という土俵上でも負けてしまう。そこで航のハートは人知れず、パキッと割れてしまった。「もっと頑張ればいいだけだろ」「些細なこと気にすんなよ」野次馬の声は、ハートまで届かずに地に落ちた。このタイミングで「マイナス」が頭を襲い始める、不幸人間が誕生した。だが当の本人は、これがとどめの一撃だと気づかない程、精神的に参っていた。 二年生になった今でもなお、状況は半年前と至って変わらない。  階段を下って地下道を歩いていると、黒や赤のランドセルを持った小学生たちとすれ違った。羨ましそうな目線で「楽しめよ」とエールを送って肩を落とした。  航は目標を探していた。身近で、達成感があって、青春を味わえて、マイナスを感じさせないような目標を追い求めていた。達成感で押し返さないと、負の奔流に流されてしまいそうになるからだった。
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