マイナスの靄

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マイナスの靄

 航の生まれ育った場所までは、東京の都心部から西に車を走らせて四十分かかる。日本の首都であるこの地でも、そこまで都会ではない場所が存在していた。 祖父は病で亡命、祖母は施設で介護を受けており、今は航と母親と妹の三人暮らしだ。  高校から南へ進み、小川を越えて、駅前のタクシー乗り場を突っ切り、巨大な交差点を越えると赤い屋根をした一軒家に辿り着いた。  英二と別れた一人の帰り道で、航はよく自分の過去を遡る。その後に、今日あった学校生活を脳内に張り巡らせて、今置かれている状況を把握するのがルーティーンだった。  席替え。今日、航のクラスでは今後を左右するイベントが行われた。クラス替え後の初めての席替えで、航はそこそこ可愛いと噂の女子の隣になった。その女子は航の想像とは裏腹に、とても饒舌な子だった。一時限目から六時限目まで、二人は様々な会話をした。航が陸上の話をすると女子は褒め、今期のドラマの話題で意気投合して、大いに盛り上がった。  でも、航の記憶に強く残ったのは、楽しく話す女子の笑顔ではなかった。ドラマの話の最中、一度だけ話が食い違い、女子は「それはわかんない」と言って、自分の髪の毛をいじり始めた。無言の時間が流れたのは、僅か数秒のみ。しかし、航はその女子のことを「拗ねて自分の世界に入ってしまう人間」とインプットしてしまった。相手の良くないパーツを汲み取り、負のレッテルを貼る。航の脳内では、義務化されたように、勝手にこんな作業が行われていた。 どうすればこの負のスパイラルから抜け出せるのか。考えれば更にその回転数が増すとも知らずに、いつも頭を悩ませていた。 「お帰りなさい。学校楽しかった?」 「別に普通だよ。いつも通り」  母親の出迎えに、航は冷たく対応した。大きい声で無邪気な返事ができた頃のように振舞うことができない自分を、感情を表に出しにくくなった自分を、煩わしく思った。 ファブリーズの間から出入りする木材の香、ひらひら音がうるさくてテープでガッチリ固定したイチローのポスター、カーテンが空気中の埃と接触して奏でる微音のハーモニー。自室に足を踏み入れた瞬間、メンタルを縛っている紐は緩くなった。制服の上着を脱ぎ捨てて、脱力した体をベッドにいざダイブした。  制服。中学時代から航は、累計四年間着用している。これを身に付けるとき、何かの枠組みに縛り付けられたような気持ちになって、心の奥がドロッと澱む。まるで絵の具の鮮やかな色に黒を混ぜたような感覚で、「やる気」という目に見えないけど存在している物を濁った色にしてしまう。  飛び込んだベッドの上でスマホを起動させた。来週から令和に元号が変わる、という記事で航の指はピタッと止まった。 「令和か。昭和みたいな響きで覚えやすいようにしたんだろうな」 今まで航は人前で演技をしてきた。自分の考えがマイノリティと理解しているので、変な人間と思われないように、人の意見に合わせていた。学校で令和の話題になったときも、それとなくありきたりな言葉を添えるだけだった。 しかし、自分の内面を晒せる場所がないと知らぬ間にストレスが溜まることに、航は気付いていなかった。  ネットニュースに一通り目を通して、スマホを布団の上に放り投げた。ぼふっと音を立てて、その分だけ掛布団は沈んだ。窓の外は、夏に向けて生い茂っていく木々とそれを左右に揺らす車通りで、ごちゃごちゃしていた。雀の群れが、パンの耳を我先に奪い合う鯉のように、せわしなく視界を横切った後、瞼を閉じて眠りについた。  意識が飛んでから一時間後、階下からドタドタと騒音がけたたましく響いた。 「葵! 階段は静かにのぼりなさい。いつも言ってるじゃない」 「はーい。次からそうしまーす」  音の発生源は妹の葵だった。葵は現在中学三年生で、バトミントン部に所属している。この時期は、夏期大会に向けての追い込み時で、常に行動がせわしない。 「お母さん、この服洗濯しといてね。スポーツドリンクはいつものやつで。あと、私の部屋に勝手に入らないで」  葵が忘れもでもあるのか、階段を何往復もしながら捲し立てた。そして数秒後、バタンという文字通りの音を家の中に残して外に出た。  根本葵。航は葵をズルいと感じていた。それは、喧嘩して母親が葵の味方をする、という当たり前の事実なんかにではなかった。葵は航の中学時代の過去問を平気で持っていく。何喰わね顔で、夏休みの課題である自由研究の内容をマルパクリする。過去問で対策を練った葵は、案の定航の点数を上回る。自由研究では、航の駄目出しされた箇所だけを修正してクラスで最優秀賞を取る。 それに対して母親が、 「葵は優秀ね。私の遺伝子をたくさん受け継いでいるのかしら」 と頻繁に口にした。それが航からすると、気持ち悪くて仕方がなかった。  葵の放っていった騒音により、航は完全に目が覚めてしまった。午後七時。二度寝するほど眠気がなかった航は、近くにあった漫画を手繰り寄せてうつ伏せ状態で開いた。手に取ったのは、バイオトレジャー学園(通称バイトレ)の七巻。バイトレとは、クズで口が達者な主人公が、正論まがいな暴論をかまして学園を中心に様々な場所で暴れまわる、という内容の少年漫画だ。アニメ化も決定して、今年の漫画界に旋風を起こすこと間違いなし、と噂されている。  ゲーム中や漫画を読んでいるとき、マイナス男は持ち前の集中力を発揮する。周りの音が無くなり、自分が主人公に成りきって、圧倒的な自由を手にした。  読み終えた後、ふとラベルの文字が目に入った。 「第八巻は四月末発売予定」 面倒臭さと続きが気になるのを天秤にかけて後者が勝ったので、航は早速近所の本屋に行くことにした。 「できるだけ早く返ってくるのよ」  過剰な親切心。最近、航は母親が自分に対してやけに心配してくるようになったと感じていた。父親と離婚した後の、女軍曹化していた頃とは比較できないほど温厚だ。 「はいはーい」  毎度の如く母親の忠告を雑に弾いた航は、外に出た。下校時の空模様に目が慣れていたので、真っ暗な景色が目に馴染むまでその場で直立した。  航を育てたこの町。家からは徒歩五分でコンビニに行くことが可能だ。本屋は一〇分あれば余裕で到着できる。ただ、航は何かが足りないと思っていた。大都会のような壮大さも、田舎のような沢山の自然もここにはない。どっちつかずの街並みを眺めては、この状況を甘受してしまっている自分に苛立ちを覚える。そして、自分の親指に四本の爪を立ててしまう。 叫びながら急ぐ救急車とすれ違い、大通りの交差点まで辿り着いた。大量の車が生み出す風が、航の気持ちをそっと凪ぐ。車の残像で輝く赤ランプが線になり、視界に残り続ける。  目的地の本屋は、航の立ち位置から直線へしばらく進んだ先の右手にあった。常時、店内は清潔に保たれており、光を反射する床が蛍光灯の光量と良い勝負をする、書物を扱うにしては若干明るすぎる本屋だ。  自動ドアの近くに立つ直前、心臓がピクッっと揺れるのを感じた。
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