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この負、どう解決する
店内には航と同年代の人間が三人いた。一人は中学校で部活仲間だった悠木。航と悠木は、割と仲が良かった。そして航の心臓を揺らした元凶が、その後ろにいる二人だった。
「おい悠木、早く飲みに行くぞ」
小学校時代の転校初日、航にイジメをした主犯A太と取り巻きB男だった。航の脳内で、過去の苦い思い出が蘇った。
進む足を止めることはできず、センサーが反応して自動ドアが開いた。戻るに戻れない状況になった航は、恐る恐る入店した。
「おい、何の本探してんだ。ここに童貞卒業のマニュアルなんてねーぞ」
「うるせーな。参考書買いに来たんだよ。変態は黙ってろ」
陽気に騒ぐ三人を背に、航は漫画コーナーまで辿り着いた。平積みの中央にバイトレが堂々と置かれている。
「ちょっと待って。俺、漫画買ってくわ」
取り巻きB男が悠木と主犯A太に声をかけた後、航の背後にやってきた。
「あれ、......根本じゃね」
航は驚きに打たれて、分かりやすく肩を上げた。
「あ、そうだけど」
「やっぱり。久しぶりじゃん」
【酷いことをした人間は、大抵そのことを覚えていないものだ。なぜなら、自らが酷いことをしている感覚がないから】
航はどこかで読んだ文章を思い出して、その通りだな、と苦笑してしまった。
「この新刊、楽しみだったんだよな」
意気揚々と取り巻きB男はバイトレ八巻を手にとって、レジに向かった。すると、本棚にはバイオトレンジャー学園の一~七巻までしか在庫が無くなっていた。自分が頑張ってこなした課題を他人に横取りされる感覚に近かった。胸糞悪くなった航は、この気持ちをどこにぶつけていいか分からず、一冊の本を裏返してその場を離れた。
「ゲホッゴホッ。やっぱヤニのどこがいいか、俺さっぱり分からんわ」
「お前は精神年齢がまだ幼稚園児なんだし、しょうがないよ。産・ま・れ・た・て、だしな」
悠木と主犯A太は店の入り口でマルボロを吸っていた。現在胸糞の悪い男は、そこにばったりと出くわした。
「根本航だろお前。久しぶりだな、小学校以来か」
主犯A太が航の肩に手を回す。近づいた顔が煙草臭くて、航はすぐに主犯A太を振り払った。
「久しぶりじゃん。航」
「なんだよ、悠木。こいつのこと知ってんのか」
「中学で同じ陸上部だっただけだよ」
だっただけ。悠木の語尾に、航が考えれば考える程、負のエネルギーを加速させる何かが隠れている。
「悪い。ジジイがレジ打ち遅くて時間食っちまった」
取り巻きB男が、会話と独り言の間のような声量を放ちながら二人に合流する。
「行くぞ」
三人になった連中は、航が来た方角と反対側に歩きだした。その後ろ姿を航はボーっと眺める。
行き場のない怒り。中学時代に航と悠木は、頻繁に遊んだり、共に泣き合ったりしたことだってある。「朱に交われば赤くなってしまうのか」
航はパンクしかけの脳内を一時停止させ、地面に落ちていた空き缶を蹴り飛ばして心を落ち着かせた。春の夜風が体の輪郭を撫で、それがやけに冷たく感じた。
家に戻った航は、仁王立ちした母親と出くわした。その表情はやけに険しく、悲しそうだった。
(何か言葉を発しなければ)無秩序に流れるテレビの音に負けない声で「ただいま」と言った。
「もう八時回ってるよ。あんまり夜に出歩かないで欲しいな。こっちは心配してるんだから」
いつもならここで怒鳴る母親。航は叱られることが好きな訳ではない。でも、これはこれで拍子抜けした気持ちになって、ムズムズした気持ちになった。
「ごめん。宿題やるから」
反論されにくいセリフを残して、航は部屋へ向かった。「ご飯できてるよ」と母親は細い声で伝えた。
自室の時計の秒針が動く音で、ベッドに顔をうずめていた航は我に返った。午後十時。そろそろご飯を食べて、風呂に入り、ちゃんとした睡眠に着かないと彼の生活リズムではまた朝練に遅刻してしまう。飲み終えたエナジードリンクの缶を握り潰して、やっとの想いで寝床から立ち上がった。
この時間帯になると、母親と葵は大体眠りについている。それを考慮して摺り足で音を立てないように階段を下る。
「はい。そうなんですか。航は感情を表に出さないタイプなんで、全然分からないんです。はい。はい」
この時間帯では、珍しく一階が明るい。リビングでは母親が電話をしていた。その横では風呂上がりの葵が静かに髪の毛を拭いている。
階段の一段目に座り込み、耳に手を構えた。使用する五感を聴力のみにして、母親の声を一語一句漏らさず捉える。
「そうですか。こういうイジメみたいな扱いにくい問題は、先生に相談しても無意味でして......」
上から、みじめ、と書かれたタライが降ってくるのを航は感じた。
「最近は自殺なんてニュースもよく聞きますし。何かこう、航にとってプラスになる解決策はないんですかねぇ」
それは等加速していき、どんどん近づく。
「航が今いじめられてるかもしれないこと、他のPTAの方々にそっと聞いていただけないでしょうか。私も、一応先生に聞いてみますので」
タライが航に直撃し、破裂音が脳内に響き渡った。小学校の記憶と酷似したその痛みは、航を階段の一段目から突き落とした。
「お兄ちゃん、ずっと元気ないもんね」
母親の電話相手はPTAに所属している英二の母親だった。小学校でのイジメのことや、最近航が学校で全く元気がないことなどを、憶測で航の母親にベラベラ話していた。
「葵も気を使ってあげてね。誹謗中傷の原因は、あの子が優しる過ぎるからなの。ただただ、いい子なだけなのに......・。人の鬱憤を晴らす対象を買って出てるんでしょうね。きっと」
空気中に散乱する粒子。今の航の目には、全てが敵に映った。
頭に渦が巻いて、咄嗟に上を向く。目を瞑って、己のなかにいる不幸に思う自分と話をする。
「イジメを受けていた過去。周りから一歩引かれている現状。それが、友達、母親、妹、先生と様々な人間に知れ渡っていたら......。これから大学や職場で出会う人が、そのことを知っていたら......」
睨むスパイダーマン。「わからない」といって髪をいじり始めた隣の女子。着ると心がドロッと澱む制服。人の能力を自分の力として扱う葵。昔友達だった、悠木。
航の心情に憎悪は無かった。自分を不憫とも思わず、憤慨している訳でもない。ただどうしていいのか分からず、無味乾燥。鏡には能面のような顔をした人間が反射していた。
「中学のときはどうだったんだろう。航がよく遊んでいた、平野さんのところに聞いてみようかしら」
何かがプツンと切れて、航の心の水面で水滴がポトンと跳ねた。午後十時半。航は屈託のない足取りで家を出た。
月はバイトレを買いに行ったときよりも昇り、ほぼ真上に鎮座していた。気温はかなり低く、厳しい冷気が航を包みこんだ。季節の変わり目の夜は冷え込む。ニュースキャスターの決まり文句として聞き逃しがちなセリフだが、これに間違いは一切ないと思った。
ついさっき頭にタライを受けた男は、フードで頭を覆いインナーをズボンにインした。ポケットには、一万円弱が入った財布とスマホが入れられており、彼の持ち物はこの二つのみだった。
「疲れたら最寄りまでタクシー使お」負に包まれた感情に一石投じるようなきっかけを求めて、航は歩き出した。
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